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前世探求のゴールはどこだろう?について考える

先日、TVの「クレイジージャーニー」という番組で、前世の記憶を持った少年についての事が放送されました。

構成や演出も良くできていて、たいへん興味深く視聴しました。


しかし私、見終わってから思う所がありました。

それは、前世の記憶につての読み物や作品は、いまやユーチューブにもたくさん存在しているのですが、そのストーリーってだいたいどれも同じだな、ということです。

もちろん、それらひとつひとつの作品や読み物はとても面白く、興味深いものです。

しかし敢えて冷めた目線でみてみると、「前世探求の物語」はほぼ下記のパターンに当てはまるんじゃないかな、と感じたのです。


前世探求のパターン

・子供の頃から前世の記憶を持ち、親にそれを話す。
・いつも同じような夢にうなされたりする。

・親は困惑しつつも、子供のためにいろいろ手を尽くす。その中で「子供が言っているのは前世の記憶かもしれない」と思い始める。

・子供の証言を元に、親が過去の歴史などを調べる。そして、証言と一致するものを発見する。
・前世の人物を特定し、その検証を重ねる。

・子供の前世に関わる人物が存命であれば、その人に会いに行く。

・前世の家族と対面し、感動の再会となる。
・おわり。


これは、もちろん私にもすっぽりと当てはまります。

私の場合は前世の記憶というものはないのですが、「夢にうなされる」の部分を「原因不明の腕の痛みに苦しむ」に置き換えると、以降はほぼパターンを踏襲しています。

Q太郎のパターン

・腕の痛みに長年苦しむ。
・その原因解明の途中で、「前世のせいではないか」と思うようになる。
・占い師を頼り、前世のヒントをもらう。
・前世の人物を特定するための探究をはじめ、占い師の証言と一致する歴史を発見する。
・前世の人物を特定し、その検証のための調査をする。
・前世の両親や、ゆかりの地を特定し、そこへ行く。
・前世の両親と感動的な再会を果たす。
・おわり。

このように、どうしても似たようなパターンの枠からは逃れられないという仕組みが見えてきます。

前世探究というテーマで作品を作ろうとすると、どうしても似たり寄ったりなものになってしまいがちだということです。

「前世の嫁に会いに行った」なんて話は、YouTubeにたくさん溢れていますが、5つ、6つと見ていくと、だんだんマンネリを感じるようになってしまいます。

他の作品群との差別化をはからないと、私の前世探究のストーリーも、このマンネリの中に埋没してしまうのではないか、という危惧の気持ちすら芽生えました。


ではここで、反証のために少し前向きな事を考えてみましょう。

例えば舞台での「お芝居」なんかは、決められたストーリーがあり、決められた脚本がある中で、様々な役者さんが何度も何度もそれを演じています。

あるいは、「水戸黄門」とか「遠山の金さん」などといった時代劇も、お決まりのパターンがあって、そこに向かって毎回様々なドラマが巻き起こります。

対象年齢を下げると、「それいけ!あんぱんまん」がありますね。ばいきんまんが悪さをして、あんぱんまんがこらしめるという。

これらの作品は、何年経っても愛され続けているという共通点があります。

何年経っても愛され続けるものとして、お笑いの「ドリフ」のコントもありますね。
次にどうなるのか予想はついても、やっぱり面白いというのはすごいことです。

これらの例をみると、「パターンにはまっているのはつまらない」とも言えなくなりますね。

YouTubeやニコニコ動画での「ゲーム実況」なんかも、決められたシナリオを踏襲していく中で、実況者の挙動に面白さを感じたり、スーパープレイで聴衆を魅了したりします。

レーシングゲームなどは、決められたコースをいかに早くクリアするか、という点が視聴者への魅力となります。

だんだん言いたいことが見えてきましたかな?

そうです。
視聴者は、べつにパターンにはまろうが何をしようがそんなのはあんまり気にしていないのです。

むしろ、「この作者は何をテーマにしてこの作品を描くのか」「この演者は、同じストーリーにどんな肉付けをするのか」というところに、視聴者の興味を惹くものがあるんじゃないでしょうか。

同じ楽譜を使用しても、オーケストラの指揮者によって曲のテイストが違ったりしますものね。

料理だって、同じレシピを使っても、仕上がる味は人によって違うものになりますし。


ということで、話を前世探究に戻しましょう。


前世探究というテーマで作品を作る限り、ストーリーの流れはパターン化されてしまうのはやむを得ないことだと割り切って考えるのが良いな、との結論に私は至りました。

もし、他の作品と差別化を図るのであれば、それは前世を特定したその後の人生を、どう生きるかということではないかと思います。

前世の特定をゴールとしてしまえば、探究の物語はそこで終わりです。

一方、前世が◯◯である、と判明した主人公が、その後の人生でどんなことをするのかについては、パターンもへったくれもありません。

そうすると、前世特定後のゴールを設定するというのは、その後の人生のテーマを決めるということに等しくなります。
では、私の人生のテーマはなんだろう?

もともと、前世の記憶に悩まされていたということもないし、過去のトラウマから解放されたい、というのもありません。
人によっては、この「過去の呪縛からの解放」がメインテーマにもなるでしょう。
ヒプノセラピーなんかは、まさにそれが目的の一つですから。

しかし私の場合は、やはり目的やテーマはそこではなさそうです。

前世を特定した今思うことは、やはり「もっともっとフス戦争のことを知りたい、そして、広めたい」ということです。


おお、答えが出たかもしれません。

私の研究するフス戦争は約600年前の出来事ですが、その研究成果を通して、「600年間も今も、人間の本質なんてあんまり変わらないのだよ」というのを伝えたいです。

戦争の悲惨さはあまり語ろうとは思いません。
けど、人間がどのようにして他者と争うようになっていくのか、という構図は描けると思います。

人間は過去の出来事については強気になれますが、過去と同じことを現在も繰り返しているというのにはなかなか気付かないものです。

フス戦争を通して、現代の人々が今の生き方について違った視点を得るきっかけになったら、とても素晴らしいことだと思います。






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