我殺す、ゆえに我あり (2/4)

  11

『例の件だが、後始末も無事に済ませたか?』
『はっ、メビスウ様。指紋、頭髪などの痕跡は一切残しておりませんし、スマホ等彼の所持品もバラバラに処分しておきました』
『ご苦労。ハコビに物を引き渡す際も誰にも見られていないな?』
『勿論でございます』
『結構。その調子で頑張りたまえ。頼りにしている』
 椅子に座ったまま、軽く胸を張り、腕を何度か回す。俺は深呼吸をした。確かに、明らかな達成感があった。偉業を成し遂げたんだ、俺は。
 部屋を出て隣のドアを開ける。「よう」
「あ、兄さん」翔馬は起きていた。
「何か変わったことあったか?」
「変わったこと……あっ、あいつのTwitterなんやけど、三日くらい音沙汰あらへんわ。もしかして兄さん、やったん?」
「あぁ、まぁな。で、どうや、感想は」
「そりゃ、嬉しいよ。ありがとう、殺してくれて」
「お前、聞いたこと無いぞそんな台詞」
「はは。ほんで、どんな手使ったん?」
「ほんまに気になんねんな、そこ」
「やって、知りたいもん、兄さんの考え。僕が思いつかんかったことしたんやろ」
「まぁな。そやな、何を使ったかって言われると、人間ってことになるかな」
「人間……? あぁ、なんとなく察したよ。兄さんらしいな」
「そうか。にしても、人一人ですら殺すのは大変やわ。特に物理的にやるんはな。俺には無理や」
「僕も。力が弱くて死なんかったらどうしようとか……」
「あと、死体の始末な。血とか臭いとか想像しただけで吐きそうや」
「兄さん、死体はどうしたん?」
「死体はな、邪魔やからあいつの家に戻しといた。ダンボールに包んで『宅配でーす』言うて」
「はっはっは」翔馬は笑い転げた。「ほんまか。なんやねんそれ」
 俺と翔馬はしばらく笑っていた。十年前の楽しい時間が戻ってきたようだった。
「兄さん、このことって家族に話してええかな」
「あぁ、翔馬が言いたいんならええけど……」
 母さんは口が軽い方だが、父さんも母さんもそれくらいの分別はあると俺は認識している。翔馬にとってこの話は荷が重かったか。どのみち、家族間で隠し事はやめにするか。心配しなくてもいい。皆俺の味方だ。
「お前も無理せんでええで。この世の中は狂ってるんやから」
「狂ってる?」
「そうやろ。理不尽、不平等なことだらけやとは思わんか。学校でも会社でもずっと誰かの言いなり。学校を出たら今度は何十年も働かされる。まるで、訳も分からず滑車を回し続けるハムスターのようにな。俺は異変に気付いてた。こいつら何のために生きてるんや。自分で考える脳味噌は無いんかって。この世界には、支配する側とされる側がおるんや。俺は、支配する側になりたい。自分の人生を支配されんのは死んでも嫌や。お前も、学校なんて行かんでもええぞ。ほんまは行きたないんやろ? 自分が本当にやりたいことをやり。金の心配はせんでええ。俺が家族の分まで稼ぐつもりや」
「うん、ありがとう……。僕の本当にやりたいことって何やろ。僕も生きる目的が欲しいよ」
「生きる目的なぁ。そればっかりは俺が言うもんじゃないな。ま、焦らんと。あいつもおらんくなったし、良くなっていくんちゃうか」
「そうやね。あ、薬飲まんと」翔馬はチャック付きの透明の袋を取り出した。
「おい、そんなに飲むんか」
「医者に言われてるから……。抗うつ薬、抗不安薬、気分安定剤。そんでこれが――」
 俺はそれらの違いがさっぱり分からなかった。「大丈夫なんか。精神の前にお前の身体が心配やわ」
「飲まんよりは飲んだ方がマシやと思って」
「そうか。気ぃ付けや」そう言って俺は翔馬の部屋を出た。俺は翔馬に薬を辞めて欲しかったが、声にできなかった。
 夕方頃、母さんが帰ってきた。ドサッと物が置かれる音がした。買い物に行ってきたのか。その後、ドタドタと階段が音を立て、勢いよく襖が開いた。
「あんた! ほんまにあんた、やったんか!」母さんは半分息を切らしている。
「何の話や」
「やから、あたしが殺したい言うてた奴を、ほんまに殺したんかって」
「あぁ、母さんが言うてたから俺がやってあげたんや」
「アホ! あんなん冗談やろ。ほんまにやる奴があるかいな」
 アホ、だと。あのトーンは紛れもなく本音だった。あの日以外にも度々口にしていたじゃないか。
「えらいことしてくれたな。ウチに警察来たら近所中に噂されんで」
「そんなヘマはせん。アホちゃうしな。絶対に足はつかんようにした」
「ほんまかいな」
「母さん。俺を売ったりせんやろな」
「はは。それはせんわ。大事な息子やもん」
 俺は内心ほっとした。母さんの返答が良くなければ最悪のシナリオがあったかもしれない。
「母さんは、あいつが死んで幸せか」
「幸せ……。そんな実感全然無いな。いまあんたのことずっと気にかけてたし。とにかく、このことは克亀くんにも相談するから」
 母さんはそう言うとピシャリと襖を閉めていった。俺は一瞬、牢獄に閉じ込められている気分を味わった。
 俺は家族のためを思ってしたのに。俺のしたことは間違っていたのだろうか。
 今日は父さんの笑い声がいつもより少なかった。父さんは爺さんが死んでから茶の間でご飯を食べるようになり、人が変わったようによく笑うようになった。その声がこの部屋にまで聞こえてくるのだ。俺はそれが心地よかった。
 部屋で一人ご飯を食べ終わってしばらくして、スーッと襖が開いた。父さんだった。
「龍一、何かやったんやってな」
「母さんから聞いたん?」
「あぁ。知らんぞ。もうやめてくれや。お父さん達に迷惑かけんといてくれ」父さんはそれだけ言って襖を閉めた。酷くぶっきらぼうな言い方だった。
 というか、それだけ……?
 俺は家族の反応に心底がっかりした。絶望した。二十七年生きてきた中で一番のどん底だ。俺は、「よくやった龍一」と褒め称えて欲しかった。
 京安に合格した時みたいに、胴上げしてほしかった。受験に勝つなんて下らないことよりも遥かに立派なことだ。そうだろう? 俺は、兄として、弟を虐めていた人間を除去したんだ。自分の血を吸ってくる蚊がいたら手で潰すだろう。それと全く同じだ。
 俺は間違ってなんかいない。絶対に、確実に、明白に正しいことをした。誰も咎めないから俺が罰を与えてやったんだ。ふっ、因果応報だよ。あんな奴、死ぬべくして死んだんだ。
 それをどうして、父さんも母さんも俺を蔑んだ言い方をする。許せない。怒りすら沸いてくる。翔馬だけだ、ありがとうと言ってくれたのは。俺を真に理解してくれるのは翔馬だけ。
 俺の心の壁はまた厚みを増していた。

  12

 しんどいことがあった次の日。空は曇っていた。学校に行くのは嫌だったけど、休んだ理由をあとで聞かれるのも嫌だったから登校した。
 休憩時間。窓際で外をぼーっと見ていたら、紗江が話しかけてきた。
「元気なさそうだけど大丈夫?」
「いや別に、何でもないよ」
「ふーん。なんか麗夏、飼ってる犬でも死んだような顔してる」
「うっ……!」わたしは頭を抑えた。
「どうしたの?」
「い、犬なんてわたし飼ってないよ。ははは」
「いや、例えだからね、ふふ」
「ははは……」
「本当はもっと大切なものを失ったの」なんて言えない。学校にまで重い話は持ち込みたくなかった。いくら親友でも話すのが怖い。聞かされた方も困ると思う。だから、誰にも言えなかった。というかわたし、そんな暗い顔してたのか。
 トイレで鏡を見てみる。顔に直接は出ていないけれど、確かにそういう雰囲気は滲み出ていた。人は視覚以外からも大量の情報を無意識下で摂取しているらしい。フィーリングというのは案外馬鹿にできない。
 学校から帰ってきて配信をしても、テンションが上がらない。コメントもいまいち盛り上がらない。思わず溜息が出てしまう。
 ねぇ。しんどいよ。

  13

 カメラを固定した三脚と照明がわたしの部屋に立っている。この勉強部屋は時としてステージになる。お父さんとお母さんにバレてないといいけど……。
「みんなーありがとうー。また見に来てねー。おつかれいかー」
 わたしは配信終了のボタンを押すやいなや、溜息を一つついた。配信は程よい気晴らし感覚でやっている。まだまだ弱小配信者だけど、見てくれる人は存在する。ファンだと言ってくれる人もいる。
 配信が終わると途端に現実に引き戻されてしまう。今日はちょっと人少なかったな。やっぱり顔に出てたのかしら。機材を邪魔にならない位置に戻し、机に立て掛けてあるツーショットの写真に目をやる。
 お兄ちゃんは、わたしが生まれた時からずっといた。今はいない。これからは、お兄ちゃんなしで生きていかなければいけない。精神的にも自立しなくちゃ。そんなことを思いながら、一人はやっぱり寂しい。
 お兄ちゃん、本当にもう会えないの……?
 あの衝撃的な日から一週間が経とうとしている。あの日のことをわたしは一生忘れないと思う。実はまだ葬儀もできていない。警察は何をやってるんだろう。やっぱり信用できない。お兄ちゃんが自殺なんかするわけないのに。動きが遅いのよ、警察は。
 わたしが中学生の時、帰り道を誰かに付けられている気がして、気味が悪くて警察に相談したら、実害が無いとか言われて取り合ってくれなくて。そんなわたしを守ってくれたのがお兄ちゃんだった。そいつを待ち伏せして懲らしめてくれた。わたしはお兄ちゃんに一生ついていきたいと思った。
 お兄ちゃんはよくわたしに話をしてくれた。どうでもいいことから真面目なことまで色々。思春期で、お互い気不味い時でも関係無かった。わたしはお兄ちゃんから、「優しさとは寄り添うということだ」と学んだ。警察は、いざという時何もしてくれない。お兄ちゃんこそが正義のヒーローよ。
 そんなお兄ちゃんがあんな目に遭うなんて。理不尽よ。あまりにも悲しいし、絶対に許せない。犯人がほくそ笑んでいるのが目に浮かぶ。わたしはこの手で、犯人を突き止めたい。
 とは言っても、手がかりは皆無と言っていい程何も無いのよね……。死体は移動しているから、どこで殺されたのか分からないし。お兄ちゃんを恨んでいる人間。そもそも、お兄ちゃんは他人に殺されるような人じゃないもの。
 けど、死体をダンボールに入れてウチに配置するなんて狂ったやり方をしておいてボロを出さないのは、計画された犯行だと思う。何か、訴えかけるような強い意志すら感じる。川地義春は途轍もなく悪いことをしたんだぞって。
 あー駄目だ。全然分からない。わたしはまた堂々巡りに陥っていた。

  14

 お兄ちゃんが死んでから、わたしたちの暮らしは変わってしまった。勿論、良くない方向に。
 家の近くで知らない大人が待ち構えている時がある。人目を気にしながら、じーっとわたしの家の方を見ている。初めは不審者かと思っていたけれど、マスコミの人間らしい。
「こんにちは。君、川地さんとこの娘さんかな。聞きたいことがあるんだけど」スーツ姿の中年男が話しかけてきた。
「あなたたちに話すことなんて何もありません」とは言わずに、わたしは前を向いたまま、無言で無視して突っ切っていく。男の存在ごと否定するかのように。
 芸能人でもないのに、マスコミの対処法を習得している自分に嫌悪感がある。わたしの中で彼らはもう駅前のティッシュ配りの人間と同然だった。
 警察も信用していないのに、マスコミになんか話すわけないじゃない。
 タレントの謝罪会見で意地悪な質問を投げる記者。災害現場で被災者に心を抉るようなことを訊くレポーター。どれもジャーナリズムという皮を被った妖怪にしか見えなかった。人の心が無いのよ。だから人の心が理解できない。
 そんな妖怪が自分の家の周りをウロついているだけで虫唾が走る。恨めしそうにネタを求めてやってくる。そういうのはおとぎ話の世界だけで充分だから。
 そうよ。誰もかれも、お兄ちゃんが死んだことを、奇妙な事件の一つとして、話のネタになるだろうと思って、面白がっているんだわ。
 近所の人達も、最近はよそよそしい。警察に加えマスコミも聞き込みをしているせいか、事件のことは電光石火で広まり、この住宅街で知らない人はいないようだ。
 向こうから挨拶してくることは減った。明らかに避けられている。何もしてないのに、「関わっちゃいけない人」扱いされていた。近寄ってくるのは妖怪だけ。
 我が家は、もはや加害者の家かと思われるくらい謹んで生活していた。お父さんお母さんも同じ思いをしているのかな。孤独な三人家族。
 三人揃っての晩御飯も粛々としている。テレビをつけることもなく会話も少ない。食器同士がぶつかる音が虚しく響く。
「いい加減にしてよ、辛気臭い。通夜はとっくに終わったでしょ」わたしはもう我慢できなくて口に出した。
「じゃあどうすればええんや。お父さん達には何もできひん。義春はもう戻って来うへんのやぞ」
「ほんとに、あの子、人生これからだったのに。大事に育てた長男だったのに。もっと色々してあげれば良かったかしら……」お母さんは涙ぐんで言った。
 何度も聞いた話だ。赤ん坊の頃は、宝物のように大切にしていただろうに、一人で歩けるようになりご飯やトイレも自分でできるようになって、親の手を離れていく。
 身内が死ぬことは想定していても、殺されるなんてことはイレギュラー。それが普通の人生。親は自分が先に死ぬと思ってる。子供に先立たれるなんて考えない。それが普通。ショックなのはわかるけど……。
「犯人が分かったら、めった刺しにしてやりたいな。そいつの家に火をつけるのでもいいな。そうでもせんと気が済まん」
「ちょっと、何物騒なこと言ってるの。あなたまでおかしくなったんじゃない?」
「こんなん、やられ損やないか。義春には何の罪もあらへん。狂った奴に殺されたんや。大事な命を弄ばれたんやで。この悲しみと怒りはどこにぶつけたらいい?」
 そんなことをしても何にもならないのに。心にぽっかり空いた穴は埋められない。お父さんも分かってるんじゃないの?
 過ぎた事を言っても変わらない。前を向かなくちゃ。前を向いて生きるのはお兄ちゃんのため。くよくよしてたら、あの世のお兄ちゃんが悲しむから。決して忘れ去ろうということじゃない。
 絶対に忘れない。胸にしっかり刻み込んで、この心の痛みを一生背負って生きていくの。
 わたしは「ごちそうさま」とだけ言って、自分の食器を流し台に持って行った。

 15

 事件のことはとうとう学校にも広まっていた。
「ねぇねぇ。ニュースで見たんだけど、あの川地って男の人、麗夏のお兄さん……?」
 開口一番でその話? どうしよう。別人だって嘘もつけるけど、紗江は一番の親友だし、お兄ちゃんの話もしたことがある。そう、ストーカーを退治してくれたあの話……。
「ねぇ。どうなの」
 黙り込んでいるわたしに追い打ちをかけるような言葉。そんな詰めるように聞かないでよ。
「うん、実はそうなんだよね……」言ってしまった。半分くらいは吐かされたようなものだ。この話題、嫌だなぁ。
「あ、そうなんだ。この前顔色悪かったのはそういうことだったのね……。あの時は嫌なこと言ってごめんね」
「いいのよ。仕方ないわ……」
 仕方ない。紗江にはどういう意味に聞こえているだろう。落とし物をしたみたいにわたしは言ったけど、人の命は代えが効くものじゃないのよ。
「なんか、この平長に犯人がいるって噂らしいよ。先生たちが身体検査を受けたりして。やばいよね、色々と」
 そんな大事になっているのか。
「わたし、今まで黙ってたけど、やっぱり本当のことを話したい。ねぇ紗江」
「あ、先生きた。ごめん、またね」そう言い残すと、彼女は長い髪を揺らして、離れた席へ走っていった。
 わたしは何か不吉な予感がした。もしかして、わたしが一方的に親友と思っていただけだった……?
 それからというもの、どうも距離を感じている。わたしの方からもうまく近づくことができない。女子グループは、「入って来るな」オーラを放出している。そういう空気が露骨にあった。なんだか様子がおかしい。
 四時限目の体育で二人組になる時間があり、紗江に訊いてみた。
「いやその、藤本さんに、『麗夏とは関わらないように』って言われて……」
 藤本さんは学年全体で女子グループを仕切っている人だ。詳しくは知らないけど、由緒ある家系らしい。
「なんで?」
「いろいろ面倒だからだって。仲良くしてると警察に話聞かれたりとかして……。あ、でもこういうのはしばらくの間よ、安心して」
 安心してって……。そんなことで……? わたしとの関係ってそんなもんだったの……?
 わたしは何より、紗江が藤本さん側についたということにがっかりした。紗江だけはわたしの味方でいてくれると信じていたのに。
「あんまり話してるとわたしも目つけられちゃうから。今もたぶん他の子が見張っていて迂闊なことは言えないの。ごめんね」
 とことん徹底してるのね。呆れちゃう。
 果たしてほとぼりが冷めた時に、また紗江たちと楽しく話せるだろうか。そもそもいつ戻れるのだろう。一度離れたものが元通りに戻るとは思えなかった。どうせぎこちないやり取りになるに決まってる。その関係はもう、親友でもなければ友達ですらないかもしれない。顔見知りの赤の他人。
 みんなわたしから離れていく。友情の糸がプツン、プツンと切れていく。まさか家族の死が縁の切れ目になるなんて。この絆は一方通行だったの? 独りよがりの友達関係だったと思うと、自分が馬鹿みたいで悲しかった。
 誰でも長いものに巻かれるのね。学校だけでなく社会に出てもきっとそう。少数派は迫害される運命。マイノリティーは生きづらい世の中。下の者は上に反対意見を言えない。思っていたとしても、上の言うことに従うしかない。下の者は押さえつけられて、我慢して生きている。
 わたしも我慢しなきゃいけないの?
 女子に限らず、男子の態度も素っ気無い。授業中の先生もわたしからは目を反らす。
 わたしの存在は空気になっていった。地球にたった一人取り残されたような孤独感。どこの世にも差別が存在すること、そして差別はなくならないということを痛感している。
 そんなわたしを見てか、ある日担任はわたしを面談室に呼び出した。
「君がどれだけ辛いか、先生には推し量ることもできないだろうけど、無理して登校することないからな。何かできることがあったら遠慮なく言ってくれ」
 担任なりの気遣いのつもりだろうけど、それがかえって「被害者の妹」というレッテルを貼られた気分だった。
 煙草臭いおっさんに何ができるっていうのよ。赤の他人に頼むことなんて無いわ。
 みんなどういうつもりなの? 「関わらないでおこう」「そっとしておこう」というのはれっきとした差別よ。行動だけでなく、そうした空気作りもね。
 同情なんていらないから。普通に今まで通り接してほしい。誰も死んだお兄ちゃんのことを何も知らないくせに。みんな他人事よ。
 どうしてこうも態度が急変するの? この間まで何ともなかったじゃない。どうしてそんなにわたしを避けようとするの? わたしが何か悪い事をした? 誰かを傷つけた? 傷ついてるのはわたしの方よ。
 皆ほんとは腹の中で面白がってるんでしょ。笑いを堪えるのに必死なんだわ。
 ごめんなさい。くよくよしてちゃだめって思ってるけど、やっぱり耐えられない。一人じゃ抱えきれなくて、押し潰されそう。
 お兄ちゃん……。涙が溢れて、視界もぼやけてくる。
 不安の闇がモヤモヤと広がっていった。居場所がない。今のわたしはひとりぼっち。これがずっと続くのかな。キラキラした高校生活を送れると想像していたのに。
 せめて、恋人の一人でもつくりたかった。胸が躍り、時には甘酸っぱい恋を味わってみたかった。この先生きてて良い事あるのかな。

  16

 現代において最も情報が早いメディアは、Twitterである。それをチェックするのがここ最近の日課だ。何も暇人だからこんなことをしているのではない。俺のやったことが世に出ていないか確認しているのだ。
 しかし、いつどこを見ても下らないニュースばかりだった。誰が結婚した、不倫したとか、知らない人間の不適切発言だとか。そんなゴシップなどは手に取るに値しない。マスコミに踊らされるなど愚の骨頂でしかない。
 京都府でダンボールの中から死体が発見されたという記事がポッと出たきり、続報は一向に見られなかった。警察もお手上げか。秘密裏に捜査している可能性もあるが、情報が皆無に等しいしどうしようもないだろう。
 川地義春という男は、完全に闇に葬られた。これでいい。こうして邪魔な人間を消していけば、いずれ間違いなく社会は良くなっていく。
 俺はずっと世の中に不満を感じて生きてきた。気に食わない人間がたくさんいた。皆そうだろう。俺が一人ずつ、駆逐していく。そして皆が幸せに生きることができる新たな社会を創造する。そのためには、まだ足りない。もっと、力をつけねば。
 俺は用を足しに下に降りた。トイレから出ると母さんと鉢合わせた。台所から何か良い匂いがする。
「おぉ、あんたか。今日は河豚鍋やで」
「最近やけに奮発してへんか」
「お祝いよ。翔馬な、鬱治ってきたみたい。明るくなった。精神科の先生も『薬減らしていきましょう』言うて。多かった時の半分にまでなって、辞めれそうやわ。パーッとやらんと」
 翔馬の、か。俺のお祝いじゃないんだ。
「あの子いまTikTokにハマってるみたいやで。そこの女の子が気になるみたい。何か髪の毛に少し紫の色付いてる、インナーって言うんかあれ」
 俺は返事をせず二階に上がった。ほらみろ、やっぱり俺が正しかったんじゃないか。俺が川地義春を殺したおかげで、翔馬の鬱が治った。川地義春が死んだことによって、翔馬が幸せになった。何も間違っていない。それが何故理解されない? 何故、「殺してくれてありがとう」と言えない? 全部俺のおかげだろ。
 俺は、「ありがとう」ではなく、「アホ」と言われた。俺は天下の京安、偏差値七十の高校を出てるんだぞ。凡人には理解できないか、この高尚な思想が。
 いつだって俺は除け者にされる。翔馬が生まれた時にも、それまではみんな「龍一、龍一」と言っていたのに、手の平を返したように翔馬を持て囃しだした。主役から脇役に転落。俺は旬の過ぎたタレントのように相手にされなくなった。
 俺はまた、まだ、冬の時代を生きている。冷たい、寒い、凍える。誰からも温もりを感じない。吹雪の中、まともに目も開けていられない中を孤独に彷徨っている感覚。横転しそうになりながら、よろめきながら、一歩一歩重い足を運んでいる。
 何をしているんだ、俺は。どこへ向かっている? 人を殺しても何も変わらなかった。俺自身はちっとも幸せになっていない。無駄殺しだよ。俺は偽善者ではない。ボランティアでこんなことをしているんじゃない。最終的には俺が最も得をしないと、やってる意味が無い。俺は、龍一という名前の通り、何事も一番でないと気が済まないんだ。
 もうなんだか、母さんにも、父さんにも、翔馬に対しても、嫌悪感を抱き始めている。相も変わらず三対一の構図。妬ましい。疎ましい。翔馬よ、あの「ありがとう」は本物か? よくよく振り返れば、「部屋に掃除機をかけてくれてありがとう」そんなテンションだったよな。俺はそう感じた。
 俺のしたことはそんな一言で報われることじゃないぞ。お前のために、家族のためを思って、この俺が腰を上げて動いたんだ。全然ちっとも割に合わない。報われない! イライラする。ムカつく。
 なに、翔馬のやつ、TikTokの女にハマっているだって? 下らない。あんな頭の悪い目立ちたがりの若者が馬鹿なことをするだけのアプリ、微塵も共感できない。どんな面の女か見てやる。
俺はアプリをインストールし、お得意のネトスト(ネットストーキング)を開始した。
 何者かも分からない人間が、聞いたこともない音楽に乗せて、見たこともない踊りを繰り広げている。そんな動画が大量に流れてくる。俺は見ているのもしんどくなり吐きそうになった。とめどなく流れ続ける動画をぶった切るように画面を閉じた。
 あそこの人間一人一人が、誰かに認められたいという承認欲で、意味不明に体をくねらせて、蠢いている。それをしている方も見ている方も、人間の薄汚い部分が露呈しているようで気色が悪かった。
 馬鹿馬鹿しい。こんなことをしている暇は無いんだ。音符のアイコンが、何かの烙印を押されたようにホーム画面に残った。俺はスマホを布団に投げた。

  17

 水曜日。翔馬と母さんは毎週午前中は精神科に行っている。即ち今家に居るのは俺だけだ。どうもあの女のことが引っ掛かる。これは単なる嫉妬なのか。
 俺は女に対して苦い思い出が多かった。好意を抱いている女が別の男と楽しげにしているのを目撃したり、好意を伝えても泣きそうな声で拒絶されたりした。俺が冗談を言うと笑ってくれていたのに、向こうから話しかけてくれたことも結構あったのに、俺の気持ちは踏み躙られた。
 遠くで固まってヒソヒソ話をしている女たちは、俺の陰口を叩いているように見えた。
 それはまさしく影だ。傍にいても、掴もうとしても決して掴むことのできない存在。追い掛けようとすると、弄ぶかのように、一定の距離を保って逃げていく。何をすれば正解なのか分からない。不気味だ。俺は足を止め、永永無窮の追いかけっこに区切りを付けた。
 そんな女という得体の知れない生き物に、翔馬はいま心酔しているらしい。危険な予感がする。せっかく鬱が治ったのに、また良からぬことが起こるかもしれない。もう二の舞は踏ませたくない。止めさせねば。
 俺は翔馬の部屋に入った。何か、あの女の手掛かりは無いか。布団の上には小さなビニールの袋。確かに薬の量は減らされているようだ。隣の台には、仮面ライダーの人形やガンダムのプラモデルが並べられている。
 さっきから、付けっぱなしのエアコンが疲弊したような唸りを上げている。
 やっぱりおかしくないか。俺は益々訝しくなった。何年も鬱で引きこもっていたあの翔馬が、ネット上の生身の女にハマるだろうか。段階として急過ぎる。ふっ、そうか。どうせ母さんがちょっと大袈裟に言っただけだったんだ。本人の口からは何も聞いてないじゃないか。知っている。翔馬はそこまで頭は悪くない。俺の弟なんだ。
 馬鹿なのは俺の方。全く、みっともない一人相撲だった。こんな形で愚弄してくるなんて、どこの誰かは分からないが、やはり女というのは曲者だ。すまない翔馬、疑ってしまって。
 電気が勿体ないのでエアコンを消し、部屋を出ようと扉の方を向く時、ふと目が何かを捉えた。机の上に色紙が裏返してある。裏返し……? それが俺の興味を惹きたてた。
 色紙を捲ってみる。描きかけのイラストのようだ。コミカルなタッチ。アニメのキャラクターだろうか、俺の見たことのない女だ。右下に「レイカ」と書いてある。彼女の髪には紫のインナーが入っていた──。
 母さんと翔馬が帰ってきたのは夕方頃だった。別に、いつ帰って来ようが構わないのだが。翔馬が襖を開けた。
「兄さん、僕の部屋勝手に入ったやろ」
「あぁ。エアコン付けっぱなしやったからな。お前いつもそうやろ」
「わざとそうしてるんや。こまめに消すより、付けっぱなしの方が電気代かからんねん」
 今日は六時間以上外にいただろうが。口応えする翔馬を少し憎らしく思った。
「そうか。わざわざそんな風に言うことか? なんか見られたらあかんもんでもあんのか」
「別に、そんなもん無いけど……プライバシーってもんがあるやろ」
 襖はピシャっと閉められた。くくっ、わかり易過ぎるぞ。お前の考えが手に取るように分かる。ずっと、殻に閉じ込められていたんだ。独りだったんだ。暗い、狭い、寂しい、寒い、苦しい。辛かったよな。痛かったよな、お前の心。
 そんな呪縛からようやく解放されて、今のお前の目には世のあらゆるものが眩しく映っていることだろう。希望という輝きを放っている。
 しかし、俺から言わせれば、それは幻想、虚構、陥穽。それはそんな風に見えるだけ、見せ掛けてあるだけ。この世の中は腐っているんだ。力ある者が愚者を騙して社会が営まれている。嘘で塗り固められた、正直者が馬鹿を見る世界。
 やっとの思いで克服したのに、お前はまた、逆戻りするのか。せっかく俺が救ってやったというのに。まだ懲りていないのか。
 よりにもよって女というものに気を引かれている。周りに平等に笑顔を振り撒いておいて腹の中では何を考えているか分からない、そういう生き物なんだぞ。希望を見ても絶望を見せられる結末が、目に見えている。縋らないでくれ。特にその、レイカという女には。
 もう、この次は無いぞ。スマホを手に取り、俺は部屋を出た。翔馬の部屋のドアを開ける。
「さっきの続きやけど、ちょっといいか」
「はぁ……何?」翔馬は溜息をついて、付けていたヘッドホンを外した。
「俺、見てもうたんや」
「何を」
「今も見てたんやろ、レイカとかいう女の配信を」
「チッ、母さんか……。あぁ見てたよ。でもそれがどうしたんや。兄さんには何も関係無いやん」
「俺もそう思ってたよ。弟の趣味が何やろうと俺の知ったこっちゃない。正直どうでもいいわな、はは。やけど、そいつだけはマジでやめとけ」
「何でや。何でそこまで言う。理由を教えて欲しい」
「その様子やと気付いてへんようやけど、そいつは碌でもない、お前にとって一番関わったらあかん女なんや」
「……なんか、爺さんみたいなこと言うんやね」
「はぁ? 爺さん?」
「気づいてへんかもしれんけど兄さん、爺さんそっくりなことしてるで」
 今爺さんの話をするなよ、煩わしい。
「この俺がじじぃと一緒やと? 翔馬、鬱が治ったか知らんが、調子づくのも大概にしとけよ。誰のおかげで今のお前がいると思ってる!」
 俺は、拳に力が入っていた。
「僕が川地義春に縛られていたように、兄さんも爺さんに縛られてるんやろ? 僕は何とか抜け出せたよ。次は兄さんの番」
「うるさい!」
 俺は、握りしめた拳を翔馬の頭上から思い切り振り下ろした。翔馬は咄嗟に顔を左へ反らし、拳は右肩に命中した。
「しょうもない話すんな。気分悪い」
「……ごめん」
 翔馬は右肩に手を当てている。
「もういい。……決めた。始末する」
「え?」
「殺すって決めた言うんや。そのレイカとかいう女をな」
「ちょっと待って。どういうこと? 殺すって」
「俺はそいつが無性に気になってな。徹底的に調べ上げたら、とんでもないことが発覚した。これを見ろ」
 俺はスマホの画面を弟に見せた。
「そいつの配信を古い順に遡っていった。二〇二二年四月二十五日のアーカイブ。画面端に映ってるもんは何や」
「えーっと、茶色の、何かの布切れ?」
「制服ちゃうんか。平長の高校の」
「僕、高校行ってないから……」
「関係あらへん。通学途中でよう見てたはずやで。電車の中とかで、見覚え無いか」
「……あっ、思い出した」
「そんで、俺はまさかと思て、そいつの名前を特定した。ほれ」
 俺はスマホを弟が持っている状態で操作し、用意していた別のページを表示させた。
「平長のホームページや。顔と名前がばっちり載っとる」
「『第二十八回校内弁論大会銅賞、川地麗夏』川地って……」
「こいつは、川地義春の妹かもしれんのや。いや、俺はもう確信しとる。顔の雰囲気も、兄の面影があるしな。俺の言ったことが分かったやろ。レイカはお前が一番関わったらあかん女なんや」
「そんな、よりにもよってあいつの妹なんて……。ぐ、偶然やってきっと」
「これほどの根拠があってただの偶然である方が、奇妙やないか」
「でもそんな、確証も無く殺すなんて、どうかしてるって」
「お前、やけに俺に突っかかって来るな。レイカに思いでも馳せとんのか?」
「ち、違う。兄さんがまた危険なことしようとしてるから……」
「危険なんは今この状況や。そいつはネット活動しとんねんぞ。何かの拍子に川地義春のことをポロっと言う可能性がある。そいつのフォロワー数はまだ百人程度やけどな、インターネットに一度落ちたもんは、残り続ける。不特定多数の元に晒される。それはある意味、警察の目をかいくぐるより難しい話や。そうなると流石の俺でも手に負えんくなる。やから、疑わしきは消すのが筋」
「うーん……ちょっと考えすぎちゃう?」
「あのな、こっちは人一人殺してんねんぞ! 誰のために殺したと思ってる! お前はいいよ。自分からは動かず、誰かから何かしてもらうのを待つだけ」
 俺は翔馬の手からスマホを取り上げた。
「……ごめんなさい」
「諦め。女なんて他にいくらでもいる。何が、『抜け出せた』や。結局まだ川地義春に縛られとるやんけ。また同じ過ちを繰り返すんか。友達に釣られて受験直前に志望校を変えたように。その友達はお前を助けてくれんかったんやろ。人に縋らず、自分の足で立って歩いたらどうや。お前はあの女に翻弄されているんや。いじめの主犯と同じ血が流れとる、そんな奴に拘るな」
「僕は、レイカちゃんを好きになってもうたんや……。それを知っても、この気持ちは変わらへん。人を好きになるのに他の人間がどうとかないよ。僕はたとえ彼女が犯罪者だとしても愛してみせる」翔馬の声は強かった。
「やっぱおかしいわお前」
「僕は精神病やから、そうなんやろうね。正常な兄さんにはわからんよ」
「はいはいそうでっか。もうええわ。ったく、まだ癌が残ってたとは。また再発するかもしれんぞ、鬱が。俺が消す、とにかくこれはもう決定事項。勘違いすんなよ。今回は俺の保身のためや。お前のためなんかやないからな」
 俺は翔馬の部屋を出て、少し乱暴にドアを閉めた。返事は無かった。翔馬は俯いて机の上の色紙を見つめているようだった。
正常だと。人殺しのどこが正常なんだ。俺も異常、正真正銘の社会不適合者だよ。

  18

 今日はいよいよライブの日。緊張するかと思ったけどそうでもない。昨日もよく眠れた。でもテンションは上がってる。わたしは人前で何かするのが好きだから。
 身支度をして、玄関で靴を履いているとお母さんに声をかけられた。
「麗夏、どうしたのそんな格好して。どこか行くの?」
「うん、友達と遊びに行く。あ、晩御飯は食べてくるから」
 わたしは慌ただしく家を出た。メイクに少し時間がかかっちゃった。歩きながらスマホを見る。目的地までの道と現在時刻を確認。うん、遅刻は心配無いわ。
 電車に乗って会場に着いた。えっと、この建物の地下二階ね。どこか異世界にでも繋がっているような、細く長い階段を降りて、中に入る。
 ロビーには誰もおらず、派手なBGMも無ければネオンライトも焚かれていない。実に質素な空間。嵐の前の静けさという感じだ。わたしは軽く武者震いをした。
 ぽつぽつと客も入って来て、わたしに気づいている様子の人もいた。「出演者はこちらへ」と書かれた案内板の方へ進む。
「あの、わたしレイカという者ですけど」わたしは受付の人に話す。
「あぁ、レイカさんね。こっちの控え室へどうぞ。時間が来たら呼びます」
 隣の大広間が控え室だった。壁は鏡になっている。そこはある意味異世界だった。
 参加者達は既に揃っていた。わたしと同年代の、高校生や大学生くらいの子がほとんどだ。挨拶に回ろうかと思ったが、どうやらそういう雰囲気ではない。空気はピリピリと張り詰めている。
多くの人は最終調整に勤しんでいるようだ。メイクアップをしている人やダンスやギターの練習をしている人。自身のことでいっぱいで、周りが気にならない程集中している。
 そんな中わたしは荷物を置き、空いている席に座って休憩していると、三十代かそれ以上の、ひと際大人の女性が話しかけてきた。
「こんにちは。へぇ、あんたがレイカ? 名前は聞くわ。確かに顔は良いわね。まぁ、そのうちバズるんじゃない?」
「あ、はじめまして。あなたはたしか……」いきなり挑発的な態度で来られて、面食らってしまった。
「わたしはサクラコ。驚いてるようだけど、今回はライブ歴二年以内なら出られるの。わたしもそういう意味では新人だから。若い子が多いけれど、負けてられない」
 サクラコの堂々とした話し方からは、若さの代わり、もとい、若さに対抗するような只ならぬ闘志を感じる。
「顔が良いだけ、若いだけでいつまでもつかしら。しぶとく生き残るには人間力を磨かないとね。あんたらにはまだわかんないだろうけど。この世界は残酷なの。女の世界でも戦いよ。弱肉強食ってこと。ここは文字通り戦場。良い旦那さんを見つけて、平々凡々な家庭を築くことが目標の女は来る所じゃないの」
「サクラコさーん、そろそろ出番です」スタッフがサクラコを呼んだ。
「呼ばれたわ。じゃあね」
 サクラコは言いたいことだけ言って去っていった。なにあの女。性格悪そう。あなたこそ人間力を磨きなさいよ。
 それにしても、なんでその年でこんな所に居るんだろう。明らかに一人だけ浮いている。良い旦那さんがどうとか言ってたけど。相手が見つからなくて欲求不満の寂しい独身女なのかもしれない、とわたしは偏見で想像する。
 わたしは待っている間、スマホでSNSや今日歌う曲の確認をしていた。しばらくしてサクラコは涼しげな顔で戻ってきた。場慣れしているのか、余裕の様子だ。
「次、あんたの出番だって。行ってきなさい」
「あ、どうも……」あんたに言われなくても行くわよ。
 関係無い。他人のペースに巻き込まれちゃだめ。変なことは考えずに深呼吸。
「──サクラコさんでしたー。ありがとうございました。『期待の新人駆け出しライブ』、続いては、京都が生んだ小悪魔、レイカさんです!」
 司会者の紹介があり、袖から出ていくと、拍手と共に歓声を浴びた。思っていたよりも人が多く動揺しかけたが、期待に応えるために頑張ろうという思いが強くなり、持ち直した。普段のわたしの配信の視聴者数以上の人数が今目の前にいる。
 ステージの真ん中にいるわたしにスポットライトが当たる。呼吸を整え、マイクを握り締める。
「どうもー。レイカっていいます。今日は来てくれてありがとう。わたし実はライブって初めてで、結構緊張してるんだけど、頑張って歌います! ではさっそく聞いてください。まずはこの曲」
 わたしは精一杯歌い、持ち時間のわずか十五分を楽しんだ。わたしもお客さんも熱気に包まれていた。
 時間は一瞬で過ぎた。アイドルという仕事を疑似体験したみたいで、夢見心地だった。大勢に元気を与えるって、素敵。
「おつかれいかー! みんなー、ありがとうー!」
わたしは初舞台を無事にやり切った。やっぱり、オンラインとは全然違う。目の前にわたしを見てくれる人達、生身の人間がいる。
 今までに味わったことのないこの興奮は、わたしにとっても良い思い出になった。
 役を果たした人達は肩の力が抜け、控え室で群がっていた。わたしもそこに混じり、モニターを見てああだこうだ言ったり、雑談をしていたりした。
 そして滞りなく全ての演者が出番を終えた。改めてステージ上に皆が整列する。再び緊張感が吹き戻す。まだ一つ残っている事があるのだ。
 司会者が口火を切る。「さぁ、来ていただいた皆さん。これにて十五人全てのステージが終わりました。お疲れ様でしたと言いたいところですが、今日はまだ終わりではありません。最後に皆さんの中で一番良かったライバーを決定致します。上位三名には賞品が贈呈されます。お客さんはこちらへ並んで頂き、一人につき一度、順に気に入った出演者の名前のパネルを押していってください。押し終わった方はあちらで座ってお待ちください」
 会場がざわつき、投票が開始された。こちらからは誰が誰に入れたのか把握することはできない。待っている間は落ち着かない時間が続く。わたしたちはただその様子を上から眺めていることしかできない。結果は神のみぞ知る。
 ふと横に目をやると、両手を握り目を瞑って祈っている子や、「おねがい」と小声で反芻している子もいる。まさに神頼みだ。
 わたしは必死なその子たちを見て、共感性羞恥心を擽られた。大袈裟過ぎやしないだろうか。わたしは不思議と冷静だった。このステージを更に上から俯瞰している自分がいる。
 言葉を選ばない言い方だが、こんな有象無象の勝負に切なる思いを懸けている者がいるのだ。「この世界は残酷。女の世界でも戦いよ」と言ったサクラコの言葉が思い出される。
「お待たせしました。投票が終わり集計が完了しました。ご協力頂いた皆さん、ありがとうございます。『期待の新人駆け出しライブ』、最高のパフォーマンスを見せたライバーは果たして誰なのでしょうか? それではいよいよ、結果を第三位から発表していきます」
 わたしは唾を飲み込んだ。緊張の瞬間。
「第三位、十四票獲得。レイカさん!」
 再びわたしにスポットライトが当たった。わたしがベスト3に入るなんて思ってもいなかったから、素直に驚いた。
「レイカさんが初出場にして三位を獲得しました。まさに期待の新人。今後も活躍してくれることでしょう。以後お見知りおきを。レイカさん、前に出てきてください。何か一言どうぞ」
「えぇっと……ありがとうございます。正直、嬉しさよりも驚きの方が強いです。これからも配信やっていくと思うので、よかったら見に来てください!」
 わたしは拍手に包まれる中、一人の青年と目が合った。わたしに向かって真っ直ぐな視線を送り続ける彼は、吸い込まれそうな瞳をしていた。
「続きまして、第二位。十八票獲得。架音さん! ボーカロイドメドレーというのは今回唯一でした。最新の曲も織り交ぜて、人間にとっては難易度の高そうなイメージのボカロ曲も滑らかに歌い、お客さんの心を掴んでいた印象です」
「ありがとうございます。今日は自分の好きな曲を詰め込みました。わたしはいつか自分でボカロを作曲して、『カノンP』と呼ばれたいと思ってます。これからも応援よろしくお願いします!」
「そして第一位、二十五票獲得。サクラコさん! 全体の四分の一の票数を抑えています! 今回最年長ですが、圧巻のトーク力と大人力を魅せつけました。やはり只者ではありません。今日で彼女のファンも一層増えたことでしょう」
「今日は優勝するつもりで来たから、結果には不満も満足もありません。わたしサクラコはこんなもんじゃ終わらない。やがてはテレビに出て、お昼の料理番組をやり、お笑いコンテストの審査員をやるの。そう、上沼恵美子のように!」
 サクラコはモノマネも若干混ぜ、会場をどっと沸かせた。本気で言っているのかしら。少なくともわたしには判別できなかった。
「えぇー、それでは本日はこれで終了となります。皆様、お疲れ様でした。忘れ物の無いようにお気をつけてお帰りください」
 外はちょっと暗くなっていたが、街灯が辺りを照らしてくれている。羽音がしたので見てみると、大きい蛾が一匹壁に留まっていて、わたしはビクっとした。さっさと帰ろう。
 階段を登り地上に出ると、近くで人だかりができている。ファンが出待ちしているみたい。
 その横を通りかかろうとすると、一人の男の子がわたしの方をずっと見ていた。わたしと同年代くらいの子。じっとこっちを見つめている。
 わたしは立ち止まって記憶を辿る。思い出した。今日の結果発表の時に目が合った青年だ。あの時も、彼は真剣でどこか思い詰めた表情をしていた。
彼がゆっくりとこっちに歩いて来る。お互い正面に向かい合う状態になった。
 彼は固く噤んでいた口を開けた。
「歌、めっちゃ良かったです」
「ほんと? ありがとう」
「あの、僕レイカちゃんのファンで……これ受け取ってください」
「何だろう。これ、今開けていい?」
「今開けてください」
 紙袋からは一枚の色紙が出てきた。そこにはわたしの似顔絵が描かれていた。コミカルなタッチで、ウインクしながら決めポーズを取っている。
「これわたし? うわー、ありがとう! すごく嬉しい」
 彼も嬉しそうだった。
「君、名前は何ていうの?」
「アマカケルです」
「アマカケルって……いつもコメントしてくれる、あの?」
「そうです。いつも見てます」
「そっか、あなただったのね。会えて嬉しいわ」
 また目が合った。アマカケルは突然よろめいて、倒れそうになった。わたしはしゃがんで何とか彼の身体を支えた。
「大丈夫? 体調悪いの?」
「いえ、僕、人が多い所が苦手で……。今日はレイカちゃんのために頑張って来たんですけど……」
 アマカケルは体勢を立て直した。咳をしている。
「ほんとに大丈夫なの」
「なんとか、大丈夫。実は僕……いや、何でもない。余計な心配かけてすいません。渡す物も渡せたから、それじゃあ」
 アマカケルは駆け足で去っていった。頼りなさそうな彼の背中をわたしは目で追いかけていた。
「レイカちゃん、写真撮ろうよ。おーいレイカちゃん、聞こえてる?」
「あ、ごめんなさい。オッケーよ」
 わたしは上の空になっていた。

  19

 やっぱり、違う。俺は満足していない。殻の中の真の俺の人格が本音を吐き出している。
 俺は爺さんも婆さんも殺せなかった。殺したいと確かに思っていたのに、憎んでいたのに、俺は何もできなかった。
 このままでいいのか。殺人をやらない平和な人生で。人生で一人くらいは、己の手で殺しておきたいものだ。俺自身がやらないと、興奮しない。
 人任せは真の殺意ではないのだ。俺はまた肝心なことから逃げていた。人が殺しているのを見ている時、確かに爽快ではあったが、同時に「俺に殺させろ」という嫉妬のような感情を抱いた。獲物を横取りされた気分。俺の玩具なのに。
 事務的な作業を終えただけで、やった気になっていた。手応え、実感、達成感が無い。何より、刺激が足りない。人にやらせるのは違う。自分でやることでしか得られない悦楽、高揚感があるのだと思う。それを俺自身が味わいたい。他人の血を見たい。
 まだこのゲームは終わってない。今度こそ、四度目の正直だ。
 そもそも人を殺したい気持ちなんて、誰だってあるんじゃないか。人を殺してはいけないと言うが、殺人犯を見てみんな罵詈雑言を浴びせるじゃないか。ネットでよく目にする誹謗中傷や、「死ね」という書き込み。あれは何だ。あれこそが本性じゃないのか。
 皆どこかで「死んでいい人間」かどうかのジャッジを下している。それならば、死んでいい人間とだめな人間の違いは何だ? そこに明確な基準はあるのか?
 殺すのはもう誰でもよかったが、川地麗夏は丁度いい標的だった。
 血を吸ってきた蚊だけでなく、近くで飛び回っている蚊も鬱陶しい。あの羽音が耳障りだ。潰してやりたい。もう俺の血は吸わせない。
 人の大切なものを奪いたい。大切なものほど興奮する。例え相手が家族だとしても。何ならそっちの方が良いではないか。
 これまで生きていて何度か、「俺はこれをやるために生まれてきたのか」というものに出会ったことがある。その時には全身に稲妻のような衝撃が走った。
 俺は今、人生で最大級の雷を食らい、脳天から身体が真っ二つに引き裂かれそうな衝撃を受けている。
 そうか、俺は人を殺すために生まれてきたのか。
 殺すことは今の俺の生きがい。人を殺すことで生を実感できる。こいつは無様に死んだけど俺は美しく生きている。そこに俺はカタルシスを覚えるのだ。誰のためでもない、俺だけのために殺す。
 俺のために死んでもらう。別に悪いとも思わない。不要な存在を一つ消すだけなのだから。社会には何の損失もない。人が一人死んだところで、何事もなく、他人事のように忘れ去られ、日常が送られる。街の歩行人も誰も足を止めることはない。せっせと働く労働者たちは皆自分のことで精一杯だ。
 目の前で死にゆく人間の顔を見ていたい。最後に吐く言葉が何なのか、どんな声なのか。悲しんでいるか、恨んでいるか。
 想像するだけで楽しくなってきた。このゲームだけは誰にも邪魔させない。はやく、はやく殺したい。わくわく。
 俺は今まで不幸だと思っていた。しかし、人生において今が一番幸せなのかもしれない。まさに至福のひと時。現時点が人生のピーク、絶頂期。
 もはや自分でも笑えてきた。完全に仕上がっている。この俺の熟成された思想、宗教を理解してくれる者はいるだろうか。いないか。人間如きの知性では無理か。分からないのならそれでも結構。
 さてと、そういうわけだから、翔馬に謝りに行こう。
「この前はすまんかったな。どうかしてたわ。俺の例のやつが発動してしもうた」
「よかった。僕もレイカちゃんが殺されるなんて本当に嫌だったから」
「血の繋がってる人間やからって殺していったら、切りがないしな。そんな奴はただのサイコパスや。いじめの主犯の妹やとしても、お前が好きになった女なんやろ。兄と妹は全く関係ない。特定の異性に好意を持つのは人間の本能なんや。お前の遺伝子が、そいつと関係持った方がええって教えてくれとる。それに素直に従った方がええ」
「うん」
「ほんでお前、あいつと繋がりたくないか?」
「別に兄さんの手を借りなくても……」
「俺はあいつのことがわかるんや。俺の言う通りにすれば上手くいくと思うけどなぁ」
「何をすればええの?」
「女っつーのはな、話を聞いてうんうん頷いとくだけでええ。お前から何か押し付けたりはせんとな。ただ彼女を受け入れるんや。そしたら向こうは勝手に優しいと思ってくれる。それが寂しい女の攻略法。そいつは兄がおらんくなって寂しくしてるに違いない。要するに、弱みに付け込むんや」

  20

 わたしはアマカケルのことがすっかり気になっていた。何だったんだろうあの子。
「ただいま」
「あら、意外に早かったのね」お母さんがわたしを出迎えた。
 帰宅したのは二十時を回らない頃だった。どうしてか打ち上げには参加する気分じゃなく、切り上げてきた。
 わたしは多少のやんちゃをしても叱られることは無い。学校の成績さえ良ければ親からは何も言われない。そのために勉強を頑張っている。わたしは今高校二年生。平長は大学まで繋がっているけれど、一定以上の成績を取らないと進学できない。それよりも来年、いや、あと数か月で進路を決めなくちゃいけない。
 机に置いてある写真を見る。わたしが小学一年生、お兄ちゃんが六年生の時にお父さんに撮ってもらった、思い出のツーショット。家の前でランドセルを背負っている。ピカピカの赤と年季の入った黒。
 こんな時お兄ちゃんが居れば、相談に乗ってもらえるのに。写真ではこんなに笑っているのに。お兄ちゃんが居なくて寂しい。もう四人揃っての食事や旅行も叶わない。
『おつかれいかー
 今日のライブ、大盛況でした。
 見てみてー。いつも見てくれてる子からこれ貰ったの!』
 わたしは元気を出そうと、Twitterで呟いた。今日のことは本当に嬉しかったから。アマカケル君、大丈夫かな。去り際に口ごもっていたけれど、何を言いかけたんだろう。
 ちょうどその時、DMが来た。アマカケル君だ。
『レイカさん、よかったら二人で会いませんか』
 よかったら会いませんか、という表面上は控えめな文だけど、会いたいという思いが確かに伝わってくる。いや、会いたがってるのはわたしの方? 心臓がドクドクと言っているのはなんで? 無意識に指が動いて、わたしは迷うことなく返信していた。

  21

 待ち合わせ場所は喫茶店だった。土曜日だからそれなりに人が多い。奥の席でスマホを弄ってる翔馬くんを見つけた。
「お待たせ。待った?」
「ううん。僕も来たばかりです」
「なんかこういうの緊張しない? ちょっと恥ずかしいね」
「そうですね」
「ねぇ、敬語やめない? なんか距離を感じちゃうなぁ」
「わかりま……じゃなくて。わかったよ」
「ぷっ。君いくつなの? わたしより年上じゃないの」
「二十二だよ」
「へー。ってことは大学生? あ、わたしは十七」
「いや、大学は行ってなくて……」
「あ、そうなの……。なんか、まずいこと聞いちゃったかな……」
「まぁ……」
「ごめんね……。アマカケル君はさ」
「ショウマって呼んで」
「ショウマ?」
「天ヶ崎翔馬が僕の名前。それで、頭文字を取ってアマカケル」
「天ヶ崎翔馬くん。かっこいい名前! あ、遅くなってごめん。わたしの名前は川地麗夏。よろしくね」
「川地、麗夏……」
「どうしたの?」
「いや、何でもない……」
 翔馬くんはわたしの名前を聞いてから浮かない顔をしている。隠し事をしているみたいだけど、何かあるのかしら。聞いていいのかな。
 それからしばらく話をするだけで、その日は解散した。去り際にお互いの連絡先を交換した。翔馬くんもわたしと同じく京都に住んでいるらしく、またいつでも会えるみたい。
 わたしは高校生だからあまり夜遅くまでは居られない。学校生活に支障をきたすのは避けたかった。学校でのわたしは相変わらずだけど、翔馬くんと居る間は全てを忘れ去ることができた。たとえ数時間でもわたしにとっては救いだった。
 わたしたちは毎週会うようになっていった。会わない日もLINEでよくやり取りをしている。月日も過ぎていき、会った回数は優に十を超えた。翔馬くんのことを考えない日はなかった。
 これって恋なのかしら。あたしたちって、付き合ってるのかな。
 どちらからも告白なんてしていない。けど、二人の思いは一致していると感じている。翔馬くんもわたしと同じ思いのはず。それは言わなくてもわかる。改まって言葉にするのは恥ずかしかった。
あの日のライブをきっかけに、磁石のように惹かれ合った。きっとこれは運命なんだわ。お兄ちゃんが、孤独なわたしに翔馬くんを宛がってくれたのかもしれない。
 いつの間にか、翔馬くんにお兄ちゃんを重ねてしまっている。心にぽっかり空いた穴を埋めてくれる存在、それが翔馬くん。
 机の色紙を見る。お兄ちゃんとの写真の隣に飾っている。翔馬くんが描いてくれた絵を見ると元気が出た。辛い事もきっと乗り越えられると、前向きになれた。
 翔馬くんも何か辛い思いをしているのなら、わたしも力になりたい。二人で手と手を取り合っていけたらいいな……なんて。
 翔馬くんともツーショット撮りたいな……。
 翔馬くんは引っ込み思案なタイプだけど、一緒にいると安心できた。わたしの話をちゃんと聞いてくれる。口数も少ないけど、聞いてくれるだけで嬉しかった。わたしのことを認めて包み込んでくれる感じ。その抱擁感が温かかった。冷え込んだわたしの心を癒してくれた。

 22

 デートは毎度目まぐるしかった。カラオケ、ゲームセンター、ボーリング。スタンプラリーみたいに、普通のカップルがやることを一通りこなしていった。
 スタンプも溜まり、気が付けば十二月二十五日。今日は二人で映画を観に行く約束をしていた。
「ほんとにいいんかな。麗夏ちゃん配信してるから、他にもファンいると思うのに」
「何言ってんの、自分から誘ってきた癖に。わたしは何も問題ないけど?」
 そういえば、ネット配信をやる頻度はめっきり減っていた。対面の、翔馬くんといる方が楽しいから……。
 やっぱり今日は若い男女が多い。カップル達は人目も気にせず体をくっつけて、手を繋いで歩いている。今日は特別な日だものね。わたしたちも同類のはずなのに、まだそういうことには手を出せないでいる。
「何か観たいもんある?」
「そうね……」
 わたしたちが選んだのは恋愛物。無難でありきたりだけど、二人で映画を観るという体験ができれば良かったから、拘りは無かった。
 ど真ん中の席に隣同士で座る。
「映画館に来るの久しぶりだわ」
「僕はけっこう来てるで」
 翔馬くんは特撮やアニメが好きだという。わたしにはよくわからない世界だけど、熱心に語るのを見てると母性本能が擽られた。
 クライマックスシーン。男が女に告白しようとしている。気が付けばわたしたちは手を繋いでいた。翔馬くんの温度が伝わってくる。映像の二人とシンクロしているかのように、お互い見つめ合う。わたしの右手と翔馬くんの左手が絡み合う。
「麗夏……」翔馬くんがわたしの耳元で囁いた。
 振り向くと、真っ直ぐわたしを見ている翔馬くんの顔があった。すごい至近距離。
 鼻と鼻がくっついている状態で、静かに見つめ合っている刹那があった。そして自然に、どちらからということもなく唇を合わせた。
 薄暗がりの空間で、二人だけの秘密を堪能した。もう、映画の内容なんてどうでもよかった。
 ほんの数秒の出来事だった。それからエンドロールが流れるまでは、正面を向いていた。手は繋いだままだった。
「映画、どうやった?」
「良かったわよ。特にキスのところ」
「それって、どっちの?」
「やだぁ。それ言わせる?」
 わたしたちは声を出して笑った。今日という日が永遠に続けばいいのにと思った。
 時が経つのを忘れていたのと日が短いのもあり、外はとっくに暗くなっていた。色とりどりのイルミネーションがチカチカと光り、幻想的なムードを創っている。
 手を繋ぐことにはもう何の抵抗も無くなっていた。吐く息が白い。しんしんと白い結晶も降ってきた。
「お、雪や。きれいやね」
 わたしは足を止め、髪をかき上げた。「ねぇ、ちょっとこっち向いて」
「ん?」
 もう一度口づけをした。今度はわたしの方から、おかわりのキス。翔馬くんは、背伸びしているわたしを支えている。
 これが現実とは思えなかった。わたしたちは、二人だけの世界に没入していた。
 手と口から熱が伝わってきて、全身が火照ってる。ちっとも寒くなかった。わたし、今すごく幸せ。仮に明日地球が滅びようとも、何の悔いも残らないだろう。
「恥ずかしいって、こんなとこで」
「関係無いわよ。今日は特別な日なんだから」
 今日が二人にとって特別な、忘れられない日になったことは間違いない。

  23

「どうや、調子は」
「まぁ、良い感じかな」
「な、女をものにするなんて簡単やろ。ほんなら次はな、あいつの家に行きたいって、思い切って言ってみろ。お前の言うことなんか何の抵抗もなく聞いてくれるはずや。ほんで、これを設置してこい」
「何やこれ」
「監視カメラや。録音機能も付いとるから盗聴もできるで」
「なんでそんな物騒なもんを……」
「お前、あいつのことをもっと知りたないんか。これでいつでもあいつの様子が分かんで。あわよくば、一人で慰めてるとこも見れるかもしれんぞ」
「でも監視カメラはやりすぎじゃ……」
「これであいつのことを観察してたら、彼女の細かい変化にも気付ける。それを言えば彼女は、『私のことずっと考えてくれてるんかな』ってなるはずや。女は一途な男に惚れるんや。翔馬、ずっとしんどい思いしてきたやろ? もうお前にこれ以上失敗させたないねん。もう俺はお前の俯いた顔を見たない。この監視カメラは俺からの援護射撃やと思てくれ」
「僕、自分で考えて行動したいよ。二人の間の話やし」
「今までうまくいってたのは誰のおかげや! せっかく俺がお前のためを思ってやってんのに! お前は俺の言うことさえ聞いとけばええんや! とりあえずこれは渡すから、後でちゃんと報告してくれよ」
 俺は監視カメラを翔馬の机の上に置き部屋を出た。監視カメラで得た情報は俺のPCで確認することができる。翔馬がその気ならパスワードも共有する。
 多少抵抗されたが、押し通せた。しかし、あれだと翔馬は百パーセント信用するのは危険だ。別のプランも用意しておこう。

  24

 瞬く間に年が明けた。二〇二四年。
 事件の方は風化していた。警察もマスコミも、根気負けしたのか姿を見なくなった。わたしの家の周りにも現れなくなった。
 わたし自身も犯人に対する執着心は薄れていた。あれこれ考えたってどうなるものでもないし……。
 年末年始はバタバタしていた。喪中であることをあちこちに伝えるのは、年賀状を書いて回るよりも大変なのだ。初詣には行かず、家でゴロゴロしていた。
 生活は正常な日常に戻りつつあった。お兄ちゃんがいないことにも慣れてしまっている自分がいた。
 ある日、LINEのメッセージが来た。
『元気してる? しばらく顔を見れてないから、会いたい。麗夏の家に行ってもいいかな?』
 送り主はアマカケル。翔馬くんだ。翔馬くんともあまり連絡を取っていなかった。
 最後に会ったのは去年のクリスマス。キスをしたその日がわたしたちのピークだった気がする。せっかく近づけた距離が少し遠ざかったようで寂しい。このまま自然消滅してしまうのかなと危惧していた。
 こちらからは何となく声をかけ辛かった。いつもわたしの方からだから、翔馬くんからも来て欲しいという願望があった。
 いつもいいタイミングで来る。意思が通じ合っているみたい。それにしても、すごい唐突でアグレッシブ。最近会ってないからかな。そんなにわたしを欲してるの? 一途な男の子なのね。かわいい。
 後日、駅で待ち合わせをして、家まで案内することになった。改札から出てきた翔馬くんに手を振ると、すぐに気づいてくれた。
「久しぶり。いやぁ、どうしてるんか気になってな」
「心配してくれてたの?」
「うん。TwitterもTikTokも更新されへんし、何かあったんやないかって。もう配信はしてへんの?」
「そうね、色々と疲れちゃって……」
「あ、ごめん。そういえば、喪中やったんやね……」
「気にしないで。ただの気晴らしでやってたことだからいいの」
「そうかぁ。まぁ、これでようやく麗夏を独り占めできるね」
「なんだか、最初から狙ってたみたいな言い方」
「一目惚れやったよ。僕の本能が、麗夏を捕まえろって告げたんや。それでこんな僕でも勇気を出して行動に移せた。良くなかったかな」
「全然。それで、どうして急にわたしの家に?」
「だから、将来的に、こういうのは遅くない方が良いと思って」
「それってつまり、そういうこと?」
「まぁ、そういうことを前提に付き合いたいってことかな」
 翔馬くんは恥ずかしそうに頬を掻いていたけど、目は真剣だった。その目を見ていると、わたしも熱くなった。
 駅から十五分くらい歩いて、家に着いた。
「お母さん、連れてきたわよ。この人がわたしの彼氏」
「おいおい、彼氏って……。あ、はじめまして。天ヶ崎翔馬といいます」
「はじめまして。天ヶ崎翔馬くん。珍しい名前ね。男前な人じゃない、麗夏。お父さんにも見せたかったわね」
「それはまたの機会ってことで、ね」わたしは翔馬くんにウインクした。
 わたしは翔馬くんを自分の部屋に入れた。
「女の子の部屋って初めてでしょ。飲み物持ってくるからちょっと待ってて」
 キッチンへ行き、冷蔵庫から出した紙パックのオレンジジュースをグラスに注いでいる時だった。翔馬くんの声に続いて、何かが床に落ちる音が聞こえた。
「何の音?」皿洗いをしているお母さんが呟いた。
 わたしは紙パックとグラスをそのままに、一目散で部屋に戻った。
「どうしたの」
「はぁ、はぁ……。うぅ……」
 翔馬くんは、ひざまずいて苦しそうにしていた。息が荒く様子がおかしい。その手元に、お兄ちゃんとの写真が落ちていることにわたしは気づいた。
「この写真が、どうかしたの?」翔馬くんの背中を摩りながら尋ねる。
「いや……何でもないよ。今日朝ごはん食べてなくて、ちょっとふらついただけ」
「……嘘だ」
 わたしは瞬時に察知した。ふらついて写真を落とすかしら。写真立てはわたしの机に置いてあったのよ。
 このモヤモヤはどこか既視感があった。そうだ、あの時だ。ライブで翔馬くんからイラストを受け取った時。あの時もわたしははぐらかされた。
 今までそのことに触れずにきたけれど、わたしは心のどこかでずっと引っ掛かっていた。しかしながら、わたしは言えずにいた。聞いちゃいけないことのような気がして。今度こそ真相を聞き出したい。モヤモヤは取っ払わないといけない。
 翔馬くんは咳をしている。写真を見ただけでそんなことになる? 絶対に何かある。
「ねぇ、隠し事はやめよう。お願いだからわたしに正直に話してほしい。どんなことでも真剣に聞くから。これからのためにも、ね?」
 しばらく、沈黙の時間が流れた。唸っていた翔馬くんが口を開けた。
「……分かったよ。どんなことでも真剣に聞くって言ったね? じゃあ、今から全てを話す。……これに写ってる男、麗夏のお兄さんやんね?」
「うん、そうだけど……」
「僕、彼と同じ学校に通っていたんや。平長に。麗夏と同じ学校でもあるね」
 黙って聞いているわたしを窺いながら、翔馬くんは続けた。
「当時彼と僕は同じクラスやった。僕はそこで、彼に虐められたんや」
 え……? あのお兄ちゃんが虐めていた……? 翔馬くんを……?
「様々な陰湿な手を使われたよ。平長に入ってすぐのこと。まだ中学一年生やで。新しいことが始まるんや、と胸を躍らせて臨んだ中学生活は、僕にとって地獄の幕開けでしかなかった。クラスメイトもみんな彼に加担し出して、時には僕を嗤い、時には僕を無視した。挙句の果てに、担任も、僕が虐められているのを見て見ぬふりする始末。担任と目が合った時でも、向こうは無表情で顔を背けた。
 僕はいつも教室で独りぽつんとしていた。誰にも助けを求められへんかった。親にも黙っていた。そんな情けないことは話せなかった。言ったら悲しむだろうし。やって、男としてかっこ悪いやろ?
 そんな惨状やったけれど、一年間は頑張って耐えようと思ったよ。毎年クラス替えがあるから、二年生になれば彼と離れ離れになって、状況が変わると期待していたんや。ところがそうはならなかった。
 一年生の後期、夏休み明け。僕に異変が訪れる。いつも通り登校して教室に入ろうとすると、足が動かなくなって、数秒後に意識を失って倒れた。僕の身体は一年三組に対してとうとう危険信号を発した。目を覚ますと僕は保健室のベッドで寝ていて、この日は後期初日にして早退することにした。
 しばらく休んでいる内に母さんが車で迎えに来てくれた。この時も、僕は母さんに本当のことを言わんかった。
 それから僕は、朝起きれへんというのを口実に──元々僕は遅刻気味やったから──母さんに車で送迎してもらうようになった。本当はこの時点で電車に乗るのもしんどくなっていた。当然やけど、勉強もスポーツも、趣味にも身が入らない状況やった。学校に行っても、虐められて帰ってくるだけ。生きる楽しみが全くない状態に陥っていた。
 皮肉なことに、僕は虐められることに対して少し耐性が付いてきて、俯瞰で見ている自分がいた。『こいつらまたやってやがる』『はいはい、今日はこのパターンね』僕が心にくらうダメージも、前期に比べて小さくなってる気がした。僕はあれからメンタルが強くなったのだと思った。
 そうして奴らとの攻防を凌ぎ続け、一年は生き抜くことができた。もう少しの辛抱だと思うと耐えられた。あと数か月先の転機に希望の光を見出して、この悲劇も終幕すると信じていた。
 そして待ちに待った二年生のクラス替え。エントランスの掲示板に新学年のクラス名簿が貼り出されていた。僕は二年四組だった。すかさず彼の名前も探す。流石に今年は違うよな……?
 二年四組の名簿を上から確認している時、誰かに後ろからポンと肩に手を乗せられた。振り返ると、彼だった。名簿に目を戻すと、『川地義春』の四文字が当然のように記されていた。
 平長の中学は一学年五クラスやから、五分の四で僕の望みは叶うはずだったのに……。この世に神様なんていないことが証明された瞬間だった。今でも鮮明に覚えているよ。『今年もよろしくな』とだけ彼は言って下駄箱に向かっていった。彼は笑顔やった。一縷の望みも無く、絶望しかなかった。また一年耐えなあかんのか……。もう、無理やって──。
 後期の二日目」
「もうやめて! 聞いてられないよ」
 突然大きな声を出したせいか、翔馬くんは口を止めて、わたしを凝視した。
「ごめんなさい……。お兄ちゃんが翔馬くんを虐めていたなんて、俄かには信じられなくて……」
「ほら、そんな顔をする。だから話したくなかったんや。……今、すごく悲しいよ。麗夏なら最後まで聞いてくれると僕は信じていたのに。思い出してまうから話すのも嫌なのに」
「ごめんなさい」わたしはそれしか言葉が見つからなかった。
「……いや、僕もこんな重い話を長々とするべきやなかったと思う。すまん。確かにこの写真を見るに、彼は家では優しいお兄さんやったんやろうけど……」
「話して」
「え?」
「さっきの続きが聞きたいから、話してほしい。最後まで。翔馬くんのことも、お兄ちゃんのことも、全てを知りたいの。わたし、全部受け止めるから」
 わたしは翔馬くんの両手を包み込むように握った。
「ほんまに聞いてくれるんか」
「わたしが言い出したことだから。とりあえず、ジュース飲んで落ち着こう。取って来るから」
 二人でオレンジジュースを飲んで一息ついた。翔馬くんは喉が渇いていたのか、一杯おかわりをして、丁度紙パックが空になった。
「じゃあ、話すね。後期の二日目からやったかな。
 例によって僕は校舎の近くまで送ってもらったんやけど、その日は車から出ることができんかった。いよいよ限界が来てしまったようや。僕の心はとっくに壊れてたんかもしれん。
 助手席で下を向いたまま震えている息子を見て困惑している母さんに、僕は全てを打ち明けた。母さんは物凄く悲しそうだった。『気づいてあげられなくてごめんな』と何度も言われた。僕も心の中で何度もごめんなさいと言った。
 僕は校舎や登校している生徒を見ることもできず、ドアを開けることもできず、母さんは車を引き返した。そして家の近くの精神病院で受診してもらった。医者にうつ病であると診断され、定期的に通ってもらって、処方された薬を飲むように言われた。
 そんで、平長は辞めることになり、地元の公立中学校に転校した。環境が変われば大丈夫だろうという母さんの采配やったけど、何かが変わったというわけではなかった。教室、いや、学校という空間が、『いじめが行われる場所』と僕の脳が認識しているみたいで、転校してから登校することは一度もできんかった。
 それに、そこには僕の小学生時代の友達が大勢いる。僕も小学生までは明るくて元気な普通の少年やった。いまの変わり果てた僕の姿を見たら、彼らはどう思うか? そう考えると彼らに顔向けできるはずがなかった。僕が転校してきたということで色々噂を立てられるのも、想像するだけで嫌だった。
 当時仲の良かった奴が二、三人、昔の連絡網を頼りに電話をかけてきたり、家のチャイムを鳴らしに来たこともあったけれど、母さんが対応するだけで、僕は一切応えへんかった。僕が顔を見せるだけでなく、彼らの顔を見たり声を聞くことも怖かった。
 こうして僕は完全に不登校になり、中学は卒業したけども、高校は現在も通信制を転々としている。精神科に毎週通って、一日の半分はベッドの上で、薬を飲み続けて……。
 あの頃から十年やで……。十年……僕は……くっ……ううっ……」
 翔馬くんは途中から涙声で、しどろもどろになっていた。ポトポトと大粒の雫が零れ、絨毯が濡れた。
この話が嘘だとは到底思えなかった。いや、そんな疑いをかけるだけで不謹慎。
「翔馬くん。勇気を出してわたしに話してくれて、本当にありがとう」
 翔馬くんが泣き止むまで、わたしは後ろから背中に手を当てていた。

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