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年の瀬

郵便物を取りにポストを開けたら
年賀はがきのチラシが入っていた。
もうそんな時期か…という
時間の流れの早さに驚き
来年は卯年なんだ…と、ぼんやりと眺めていた。

以前は、元旦に届くよう
年内に年賀状を書き上げて投函していたが
年の瀬も押し迫って慌てて書くようになり
そのうち、正月休みに書くようになり
やがて、来た人にだけ返すようになった。
返事を書くように出す年賀状も
おかしなもんだ、と思い
あるときから、すっぱりと年賀状をやめた。

日頃お世話になっている方には
年末にも年始にも、きちんと挨拶をするし
親しい仲間とは年越しライブで顔を合わせる。
必要のある人には、その時々で
連絡を取っているので問題がないように思えた。
年賀状を出さなくなって
数年は何枚か届いていたが
そのうち、会員登録をしている
業者さんだけになった。
不義理かもしれないが、慣習だけの挨拶に
意味を感じられなくなってしまったのだ。

子どもがいれば、子どもの成長などを写真にして
こんな近況です、と報告も兼ねた挨拶ができるが
独り身なので、特に書き添えて
知らせるようなことがない。

年始の挨拶がひと通りおわって、気が抜けた頃に
不意に「おめでとうございます」と声をかけられ
反射的に「ありがとうございます」と
答えてしまったことがあるくらい
正月に対しての意識が低い。

実家を出てからは
正月に実家に帰ることもないので
おせちや雑煮を食べることもない。
おせちといっても
祖母が、異常なほどに栗きんとんが好きで
お重の一段目は
数の子と八頭と伊達巻と栗きんとん
二段目は、さらに栗きんとんだけが占めていて
三段目は、お煮しめ。
祖母の好物のみで詰められていたので
些かバランスがよくないが
ここぞとばかりに栗きんとんを食べる
祖母が可愛らしく、微笑ましかった。
大福茶はいただくけれど、お屠蘇は苦手で
三が日の食事の際に、干支が箔押しされた
祝い箸でいただく以外
お正月らしいことがなかった。
そもそも、父と自分は、元旦の午前中に帰宅して
バタンと寝てしまっていたので
日常よりもハードだったかもしれない。
実家を出てからも、祝い箸だけは用意していたが
この慣習に意味はあるのか…?と
疑問を抱いてから、もう何年も買っていない。

冬が好きなのでクリスマスのイルミネーションや
年の瀬の商店街の活気も年明けの静けさと青空も
わくわくしたり、ゆったりしたりと楽しい。

有楽町の職場に勤めていた頃
ミレナリオの時期は、東京駅までの一駅分
歩いて帰っていた。
仕事帰りに、美しいイルミネーションが
楽しめるとはなんという贅沢だろう…と
息の白さが気にならないほど
うっとりと眺めていた。

冬は、空気が澄んでいて、夜空の青が深く濃い。
そして、夜が長いのも、いい。
せかせかと慌ただしく、華やいだ賑わいの中
今日も、自分のペースで、のんびりと空を仰ぐ。

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