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会津の汚名を晴らし、薩摩との友情を育んだプリンセス 〜秩父宮勢津子妃〜

9月9日は、秩父宮雅仁親王妃勢津子が生まれた日。(1909年9月9日-1995年8月25日)

旧名は松平節子(まつだいらせつこ)。

皆様、いつもありがとうございます✨
グリーンビューティ®研究家の青木恵と申します。

ここでは、貴族、王族、名を残した方々の生涯、成し得たことをアップしています。
聖書にある「すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、さらに多く要求される」(『ルカによる福音書』12章48節)をベースにしています。

先人がどのような環境で生まれ、何を学び、どんなことを残したか、そんなことを書いていけたらいいなと思っています。

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父の任地イギリスのロンドンで生まれる。

外交官であり、伯爵の松平恆雄の長女。母は鍋島直大(侯爵、佐賀藩11代藩主)の娘・信子。

生後数か月で帰国し、その後北京、天津、ワシントンの領事館・大使館で少女期を過ごす。

1925年に渡米。ここで、生涯の親友となる樺山正子と出会う。

実は、節子の祖父は、維新の際に朝敵の汚名を着せられた旧会津藩主松平容保。

一方、正子の祖父、樺山資紀は一介の薩摩藩士から海軍大将に上り詰めた人物。

会津藩と薩摩藩といえば、幕末の戊辰戦争、会津戦争で戦った敵同士。

節子は会津人の反骨精神を持ち、努力家の才媛で、誰からも好かれる人柄だった。

一方正子は、『韋駄天お正』と言われ行動が早く、何でも自分の目で確かめる実践派。後に夫となる白洲次郎とも薩摩のことで平手打ちをしたとか、しないとか。

そんな2人は妙にウマが合い、かけがえのない親友になった。

やがて、節子の人柄が明皇后(大正天皇皇后)のお耳に入り、秩父宮妃候補となり、正子の父、樺山伯爵が貞明皇后の命を受け、節子が秩父宮妃となるよう説得。

松平家は最初は固群したものの、周囲の会津人たちの希望もあり、節子の成婚が決まった。

この成婚の際、会津の旧藩士たちは「これで逆賊の汚名が晴れる」と、涙を流して喜び、さまざまな思いを背負ってのご成婚だった。

勢津子妃は、生涯、会津人としてのアイデンティティを強く意識し、行動をされていたそう。

1995年に85歳で薨去。
豊島岡墓地に眠っています。


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