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ヘンリエッタ・アン・ステュアート〜幼い頃は極貧、25歳で夫の愛人に毒殺されたプリンセス〜

皆様、いつもありがとうございます✨グリーンビューティ®専門家の青木恵と申します。

ここでは、貴族、王族、名を残した方々の生涯、成し得たことをアップしています。聖書にある「すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、さらに多く要求される」(『ルカによる福音書』12章48節)をベースにしています。

先人がどのような環境で生まれ、何を学び、どんなことを残したか、そんなことを書いていけたらいいなと思っています。火曜日・木曜日にまとめて投稿しています。該当する偉人がいない場合はお休みです。

長文につき、時間があるとき、興味がある方をご覧くださいね。

楽しんでいただけたら、嬉しいです。


6月16日は、フランス王ルイ14世の弟オルレアン公フィリップ1世の妃、ヘンリエッタ・アン・ステュアート(1644年6月16日 - 1670年6月30日)が生まれた日。
イングランド・エクセター出身。

Henrietta Anne Stuart, 1644年6月16日 - 1670年6月30日

父は、清教徒革命で処刑されたイングランド王チャールズ1世。
母は王妃ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランス。
ルイ14世、オルレアン公フィリップ1世兄弟とは母方の従兄同士。

母の実家であるフランス王家に亡命するも、内乱で亡命してきた母子に手を差し伸べる余裕はなく、
幼いヘンリエッタたちは燃やす薪すらない凍りついた部屋で極貧生活を送った。

その後、兄チャールズがイングランド王チャールズ2世としてイングランドに帰国、即位。
16歳になっていたヘンリエッタも母と共にイングランドへ帰国した。

ヘンリエッタは美しく、知性を持った王女に成長し、ルイ14世の弟オルレアン公の妃にと懇願され、縁談が成立。
1661年3月31日、17歳になったヘンリエッタはオルレアン公とルーヴル宮殿で結婚した。

が、夫は、女装を趣味とした男色家であり、ヘンリエッタに全く興味を示さなかった。

2人の間にマリー・ルイーズ、フィリップ・シャルル、アンヌ・マリーと3人の子供達が生まれても、夫婦仲は改善されなかった。

オルレアン公はやがて夫妻の館にまで、美男の恋人フィリップ・ド・ロレーヌを連れ込むようになる。

耐えきれずにヘンリエッタは、ルイ14世に訴えた。

彼女の訴えを聞いた王は、フランスとイングランドとの関係が悪化することを恐れた。

さらに、ライバルだったオランダとの関係にも頭を悩ませていた。

ルイはまずにロレーヌを孤島シャトー・ディフに投獄し、文通を一切禁止。
次に王チャールズ2世の妹であるヘンリエッタにオランダをイングランドとフランスの敵とする同盟を結ぶための協力を要請。

ヘンリエッタはドーヴァー秘密条約を締結。密使として見事に大役を果たした。
が、オルレアン公は、何も知らされておらず、面目をつぶされ、自分の妃であるヘンリエッタを益々嫌悪するように。
その帰国2ヶ月後、チコリのお茶を飲んでいる最中に突然苦しみ出し、親友ラファイエット夫人に抱かれそのまま急死。享年25歳。

これはフィリップの愛人、ロレーヌが仕組んだものとされている。が、イングランドのチャールズ2世に対する配慮からうやむやに処理された。

ヘンリエッタは忌の際に涙に暮れるルイ14世に「陛下、私は亡くなるでしょうが、どうか泣かないで」と慰めた。

ラファイエット夫人はのちに、『クレーブの奥方』というフランス初の恋愛小説を書き、2人のプラトニックラブを昇華させた。

2人の愛は、何回も繰り返し映画化されています。

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