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世界中の子どもたちに温かい眼差しを向け続けた水彩画家

12月15日は、子供の水彩画家で知られたいわさき ちひろ(1918年12月15日 - 1974年8月8日)が生まれた日。

享年55歳。絵本画家でもあった。夫は日本共産党元衆議院議員で弁護士の松本善明。「窓際のトットちゃん」の絵でも知られた。

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グリーンビューティ®研究家の青木恵と申します。

ここでは、貴族、王族、名を残した方々の生涯、成し得たことをアップしています。
聖書にある「すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、さらに多く要求される」(『ルカによる福音書』12章48節)をベースにしています。

先人がどのような環境で生まれ、何を学び、どんなことを残したか、そんなことを書いていけたらいいなと思っています。

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岩崎正勝・文江の長女として母の単身赴任先・福井県武生(現・越前市)で生まれたが、生後すぐに東京渋谷に転居。本名知弘。

父・正勝は陸軍築城本部の建築技師、母・文江は女学校の教師(博物家事・理科)。

岩崎家は当時としては非常に恵まれた家庭であり、ラジオや蓄音機、オルガンなどのモダンな品々があった。父・正勝はカメラも所有しており、当時の写真が数多く残っている。

ちひろは幼少から絵を描くのが得意で、小学校の学芸会ではたびたび席画(舞台上で即興で絵を描くこと)を行うほどだった。

ちひろの入学した東京府立第六高等女学校(現在の東京都立三田高等学校)は、生徒の個性を重んじ、試験もなく、成績表も希望者に配布されるのみだったという。
ここでもちひろは絵がうまいと評判だった。

その一方で運動神経にも優れ、スキーに水泳、登山などをこなした。

女学校2年(14歳)の3学期、母・文江はちひろの絵の才能をみとめ、岡田三郎助の門をたたいた。ちひろはそこでデッサンや油絵を学び、朱葉会の展覧会で入賞を果たした。

ちひろは女学校を卒業したのち、岡田の教えていた美術学校に進むことを望んだが、両親の反対にあって第六高女補習科に進んだ。18歳になるとコロンビア洋裁学院に入学し、その一方で書家小田周洋に師事して藤原行成流の書を習い始めた。
ここでもちひろはその才能を発揮し、小田の代理として教えることもあったという。

20歳の頃、意に沿わぬ見合い結婚をするものの、翌年に夫が自殺。結婚生活に終止符を打つ。

宮沢賢治のヒューマニズム思想に強い共感を抱き、日本共産党の演説に深く感銘し、勉強会に参加したのち入党。31歳の時、共産党支部会議で演説する7歳年下の青年松本善明と出会い、好意を持ち、結婚式を挙げた。

ちひろは、32歳で長男・猛を出産、当時、夫は弁護士を目指して勉強中で、ちひろが絵筆一本で生活を支えなければならなかった。そのため、生後1ケ月半の息子を、長野県安曇野の両親のもとへ預けた。が、当然ながら乳が張る。日頃から母乳を止めないよう、当時住んでいた神田神保町の隣の家でやはり生まれたばかりだった子供に乳を飲ませていた。

猛より半月ほどあとに生まれたその子こそ、現在、俳優・タレントとして活躍する三宅裕司である。

戦後、絵本画家として自立したちひろは、一人の子どもの母親となる。母となった気持ちを、「うしおのように流れ出す愛情を、どうしようもなくて」と表現したちひろ。そのまなざしは、わが子だけではなく、世界の子どもたちに向けられるようになった。

「世界中のこども みんなに 平和としあわせを」と願いを込め、亡くなるまで描き続けた。

1974年肝臓がんのため死去。享年55歳。

ちひろが描いた子どもや花は、今もいのちの輝き、平和の大切さを語り続けている。

いわさきちひろ記念館より引用

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