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帝国崩壊の中、一家の権威を守り抜いたハプスブルク最後の皇后

5月9日は、オーストリア=ハンガリー帝国最後の皇帝カール1世の皇后ツィタ・フォン・ブルボン=パルマが生まれた日。( 1892年5月9日 - 1989年3月14日)

常にヨーロッパの中心にあり、近隣の諸国と積極的に婚姻関係を結び勢力を拡大してきたハプスブルク家。「高貴なる青い血」を受けついだ一族、ハプスブルク帝国の崩壊を迎えることになった最後の皇后だった。

皆様、いつもありがとうございます✨
グリーンビューティ®研究家の青木恵と申します。

ここでは、貴族、王族、名を残した方々の生涯、成し得たことをアップしています。
聖書にある「すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、さらに多く要求される」(『ルカによる福音書』12章48節)をベースにしています。

先人がどのような環境で生まれ、何を学び、どんなことを残したか、そんなことを書いていけたらいいなと思っています。

【生い立ち】

イタリア王国のルッカ近郊ピアノーレ城で誕生する。父はブルボン=パルマ家のパルマ公ロベルト1世、母はポルトガルの廃王ミゲル1世の娘マリア・アントーニアで、異母兄姉を含む24人の兄弟姉妹中17番目の子である。敬虔なカトリックの考えのもと、貴族子女のための修道院で教育を受ける。15歳で父と死別。

幼い頃より、弟の面倒見がよく、しっかりもので、公女としての自覚を持っていた。当時のオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフの招きで度々宮殿を訪れており、そこでは将来の夫となるカールとも何度か面識はあった。カールは、将来皇帝となる皇太子であった。

【婚約】

17歳の初夏、ツィタはいとこマリアとともに保養に訪れたフランツェンバートにてカール大公と再会。そして交際をスタート。

19歳になるとウィーン宮廷舞踏会にデビュー、本格的に将来の夫候補を探し始める。ツィタの清楚で美しい振る舞いは、評判となり、やがてマドリード公ドン・ハイメからの求婚があったことを知ったカールは、ツィタとの婚約を急いだ。

【祝福された結婚】

1911年10月21日、シュヴァルツァウでツィタとカール大公は結婚した。ツィタ19歳。結婚式前日には、ウィーナー・ノイシュタットの航空隊が祝賀飛行を行った。帝室と市民から、盛大で豪華な祝福を受ける。フランツ・ヨーゼフ1世は皇太子ルドルフや皇后エリーザベトの死後落ち込んでいたが、カール大公とツィタの結婚に際しては稀に見る上機嫌さを示したそう。

【サラエボ事件勃発】

新婚まもなく、サラエボ事件が発生し次期皇帝となるはずのフランツ・フェルディナント大公夫妻が暗殺され、第一次世界大戦の引き金となった。カールとツィタ夫妻にとっては、数十年先と考えられていた帝位継承が目前に迫ることとなった。

【混乱の中での皇位継承】

フランツ・ヨーゼフ皇帝が1916年に死去すると、カール夫妻は、皇帝と皇后となる。

カール一世として即位したカールの政治体制は、すでに時代遅れとなっており、崩壊は時間の問題であった。

その中でツィタは、常に夫に寄り添い、励ましていた。

【ハプスブルク解体】

第一次世界大戦はオーストリア、ドイツ、オスマン帝国対イギリス、フランス、イタリアという戦争だった。イタリア、ブルボン=パルマ家出身のツィタは、「イタリア女」と呼ばれ国民から嫌われた。

1918年、オーストリアは第一次世界大戦に敗北し、帝国は帝政廃止。ハプスブルク法によって、王朝的な特権を放棄させられ、解体され、財産はすべて没収された。

【流転の日々】

スイスへの受け入れも拒否されたため、ポルトガル領マデイラ島に亡命。そこでは、財産を没収され、お金のない皇帝夫妻は、近所の住民から食料などを恵んでもらっていた。

そんな中、カール1世が4歳の息子の誕生日プレゼントを買いに出かけたときに風邪をひき、金銭難のため医者を呼べず、悪化。肺炎で没した。享年34歳。若すぎる死であった。

最後の言葉は、ツィタに「とても愛している」と残したそう。

ツィタは生涯黒い衣服を着るようになった。

【カール亡き後】

ツィタは国外追放処分となっていたが、1982年8月17日にチロルを訪れた。戦後、ハプスブルクやツィタに対する反感感情は無くなり、むしろ国民の半数が帰郷を歓迎。以来、ツィタはしばしばオーストリアに入国し、そのたびに1万人以上の群衆が「最後の皇后」を見ようと押し寄せたそう。

【晩年】

1960年代初期から、ツィタはスイスにあるカトリックの老人ホームで隠棲生活を送っていた。1989年、死去。享年96歳。

【伝統の葬儀】

オーストリア国内の反対論を押し切る形で、ハプスブルク伝統の葬儀が行われた。

ウィーン市内のシュテファン大聖堂で葬儀が行われ、カプツィーナー納骨堂に葬られた。葬儀ではモーツァルトのレクイエムが全曲演奏され、帝国時代の国歌『神よ、皇帝フランツを守り給え』も歌われた。共和制移行後、シュテファン大聖堂にかつて国歌だったこの曲が響いたのはこの時が初めてであった。


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