脅威の順応力で恋に生き、愛に生きたプリンセス
12月12日は、ナポレオン一世の妻、のちのパルマ大公マリー・ルイーズが生まれた日。(1791年12月12日 - 1847年12月17日)
神聖ローマ皇帝フランツ2世(後のオーストリア皇帝フランツ1世)の長女マリア・ルドヴィカとしてシェーンブルン宮殿で生まれた。
ナポレオンが恋焦がれたオーストリア、ハプスブルク家の皇女。
ナポレオンのトロフィーワイフ。
2年前のフランス革命で大叔母のオーストリア皇女・マリーアントワネットを処刑されたばかりだった。
フランスからの侵略によってシェーンブルン宮殿を2度に渡って追い出され、ナポレオンは恐ろしい憎むべき男だと教えられ、「ナポレオン」と名を付けた人形をいじめながら育ってきた。
マリーは、ナポレオンのジョゼフィーヌとの離婚を知った時に「次に妃として迎えられる人に心から同情すると共に、それが自分でないように願っている」と親しい友人に宛てて手紙を書き送ったくらいであった。
そのため、自分とナポレオンが結婚しなくてはならなくなったと聞かされた時には泣き続けたという。
が、実際に結婚してみるとナポレオンはとても優しく気持ちがほぐれていった。
しかも、ナポレオンは何やらマリーを恐れているくらい気遣っていた。
そのうち離婚後も付き合っていたジョゼフィーヌに嫉妬するほどナポレオンを愛するようになっていった。
そして、ナポレオン2世を出産。
マリーは、ナポレオン失脚後、オーストリアに帰国。
父、フランツ2世は、マリーをあくまで一時的にナポレオンの許に嫁がせたと考えていた。
そしてナポレオンによって侵略されたトスカーナを元の統治者であるトスカーナ大公フェルディナンド3世(フランツ1世の実弟、マリア・ルイーザの叔父)に返還し、マリーには、パルマ公国の統治権をと考えていた。
そのため、マリーに16歳年上のアルベルト・フォン・ナイペルク伯爵を与え、ナポレオンのことはすっかり忘れるよう仕向けた。
マリーは、父帝の思惑通り、ナポレオンをすっかり忘れ、この新しい恋に生き、ナイベルク伯との間には4人の子供を産んだ。
1821年5月5日、ナポレオンがセント・ヘレナ島で死去。
マリーは、オペラ『セビリアの理髪師』を観に歌劇場へ行った時に偶然見かけた新聞で、その死を知った。
ナポレオンはマリーに、自分の心臓を保管して欲しいと遺言していたが、彼女は「私の願いは、あの人の心臓があの人のお墓の中に葬られることです」と一言のもとに断り、その代わりにデスマスクを受け取った。
しかし、そのデスマスクもしばらくすると彼女の子供たちの遊び道具の一つとなったそう。
ナイペルク伯が亡くなった後は、シャルル10世に仕え、オーストリア宮廷の式部官シャルル・ルネ・ド・ボンベルと再婚。
互いに好意を持った出会いだった。
その翌年 父フランツ2世が病死するとマリーはもうウィーンに行く理由はなくなり、パルマが最も心安まる地になった。
あまり知られていないが、マリーがパルマに残した功績は大きい。
道路、橋の建設に始まり、学校と商工会議所の設立、病院の増設。ワイン産業を中心とした農業の発展に努め、著名な作家や芸術家を次々と招き、パルマを他の大都市に負けないような文化都市にしたのである。
幸福な結婚生活がマリーを支えた。
1847年にリューマチ性胸膜炎にかかりその生涯を終える。享年56歳。
当時、高貴な女性は政略結婚のコマだった。が、マリーは脅威の順応力で幸福に生きたプリンセスだった。
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