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財閥一族に生まれるも戦後混血の子供達のママになった女性〜澤田美喜〜

9月19日は、エリザベス・サンダース・ホームの創立者、沢田 美喜が生まれた日。(1901年9月19日-1980年5月12日)

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グリーンビューティ®研究家の青木恵と申します。

ここでは、貴族、王族、名を残した方々の生涯、成し得たことをアップしています。
聖書にある「すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、さらに多く要求される」(『ルカによる福音書』12章48節)をベースにしています。

先人がどのような環境で生まれ、何を学び、どんなことを残したか、そんなことを書いていけたらいいなと思っています。

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三菱財閥の3代目総帥・男爵岩崎久弥の長女として東京都文京区に生まれる。

祖父は三菱財閥の創業者、岩崎弥太郎。

東京女子高等師範学校附属高等女学校(現在のお茶の水女子大学附属中学校・お茶の水女子大学附属高等学校)を中退するも、津田梅子に直接英語を学び、その英語力はのちに大いに発揮されることになる。

美喜は、竹を割ったような性格で、その気性を気に入っていた祖母の喜勢(弥太郎の妻)は、兄たちのお古を着せ、取っ組み合いをしても良しとし、折にふれ祖父、弥太郎のスジを通す性分を語って聞かせたという。

1922年、クリスチャンの外交官・沢田廉三と結婚してキリスト教に改宗。

結婚後、南北アメリカやヨーロッパ、北京を移り住み、三男一女に恵まれた。美喜はどこへ行っても、物怖じしない社交的な性格で、受け入れられた。

戦後、東海道線に乗っていた美喜の手元に網棚の荷物が、落ちてきた。闇物資を取り締まり中の警官が駆け寄り、美喜は命じられるままに風呂敷包みを開けると、現れたのは黒い肌をした赤ん坊の死体でした。

警官は、美喜を母親と決め付けたが、憤然として、「私がお産をしたばかりの体か調べなさい!」と、服を脱ぎかけたその時、乗客の証言で疑いが晴れたという。

日本に進駐した米兵と日本女性との間に生まれた混血児であった。

夫の理解も得た美喜は憑かれたように行動を開始。

美喜、46歳の時だった。当時は、旧財閥の娘とはいえ資金調達は厳しく、美喜は私財を投じ、寄付を仰いで金を集めた。こうした混血孤児を護るために美喜は、混血児達のための児童養護施設を立ち上げた。

遺言で176ドルの寄付をしてくれたイギリス人女性の名前を取って、『エリザベス・サンダース・ホーム』と命名した。

美喜は、子どもたちがエリザベス・サンダース・ホームを巣立った後、社会での偏見と差別に堪えうるだけの免疫を育てるために、厳しい躾を行っていった。

こうしてエリザベス・サンダース・ホームから巣立った混血児は2000人を超える、と謂われている。


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