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実は欧米の自我の強いヒロインを演じたかった女優、原節子

皆様、いつもありがとうございます✨グリーンビューティ®専門家の青木恵と申します。

ここでは、貴族、王族、名を残した方々の生涯、成し得たことをアップしています。聖書にある「すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、さらに多く要求される」(『ルカによる福音書』12章48節)をベースにしています。

先人がどのような環境で生まれ、何を学び、どんなことを残したか、そんなことを書いていけたらいいなと思っています。火曜日・木曜日にまとめて投稿しています。該当する偉人がいない場合はお休みです。

長文につき、時間があるとき、興味がある方をご覧くださいね。

楽しんでいただけたら、嬉しいです。


6月17日は、日本の女優、原節子が生まれた日。

1920年6月17日-2015年9月5日

戦前から戦後にかけての日本映画を代表する女優「永遠の処女」と呼ばれた。代表作は、『晩春』(1949年)や『東京物語』(1953年)などの小津安二郎監督作品。
ほかに『わが青春に悔なし』(1946年)、『青い山脈』(1949年)、『めし』(1951年)がある。

(本名:會田昌江(あいだまさえ)、1920年6月17日-2015年9月5日)

神奈川県橘樹郡保土ヶ谷町帷子(現在の横浜市保土ケ谷区月見台)で父・藤之助、母・ナミの間に末っ子として生まれた。

私立横浜高等女学校(現:横浜学園高等学校)に進むも、家庭が経済的に困窮していたこともあり、映画監督をしていた義理の兄の勧めもあり、女学校を二年で中退、映画界に入った。

小津安二郎監督の作品で知られている。が、本人は黒濹明監督の作風に惹かれていた。

古典的な日本女性を演じるよりも、欧米の自我の強いヒロインに共感を覚えていた。特にイングリッド・バーグマンに憧れていたそう。

年を経るにつれ、若さと美しさだけが求められる女優の在り方、若い観客向けの企画にばかり力を入れる映画界への失望を募らせ、43歳で引退。

95歳で亡くなるまで、独身を通し、人前に出ることはなかった。

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