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井戸平左衛門略伝(芋代官の話)

井戸平左衛門の徳を讃えた書き物があるんですが、筆で書かれたもので読みにくかったので、こちらに書き写してみました。かなり大ざっぱにまとめたものではあるんですが、それでも井戸平左衛門が何をした人かは伝わってきます。

井戸正朋公 略伝

大森銀山は天正年中羽柴秀吉公毛利元就と共に奉行を置き これを支配せしが 徳川氏に至り慶長年中これを幕領として銀山奉行を置きて以来 維新前の鍋田三郎右衛門に至るまで 代官職を連綿として』継続し 仁摩 安濃 那賀 邑智 各郡中の数村を銀山領として支配せり

かくて代官の威権隆々たるが故に 領域の小民に至るまで達方に至りては大いに天領の民として誇り 威勢ことに盛なりき
然るに累葉の代官中 独り出藍の聞こえ高きは井戸平左衛門正朋公なり

公は石見備後備中の代官にして 時は享保 徳川八代将軍吉宗公の治世中 気候不順にして五穀實らず 饑飢京幾以西九州に亘り 餓死する者三十餘万人この時井戸公六十才の頽齢を提げて 中国に来たり幕領を治めらる
實に享保十六年九月二十日なり

石見は数年の凶歉に領民饑渇に迫り 翌十七年の大凶年に及んで瀕死の者続出したり
井戸公決心の臍を固め 敢えて幕府の命を待たずして悉く當年の田租を免じ 官庫を開きて己が預かれる年貢米を盡く出して 細民を賑わしたり

翌享保十八年は幸いに豊稔にして万民憂の眉を開き 只管正朋公の仁政を徳として称えたり

この時幕府の命あり 備中笠岡代官所に命を待たしむ
幕府は救恤の効を賞し官等昇叙の優命を傳えんと幕吏笠岡に来たるに先ち 一子内蔵之助へ遺書に詳らかにし 陣屋に於いて自刃せられたり

時に享保十八年五月二十六日の夜なりき 齢正に六十二才
法号を泰雲院殿義岳良忠大居士と称し 笠岡威徳寺に葬る

これより前 正朋公は累年の饑飢を憂え 頻りに救済の法を案じ居られし折柄 南海の僧と稱して一人の出家偶々行脚して来たり
薩摩の国に琉球芋の有りし由を教え これを栽培して豊
なきことを告げたるに 公これを聞き大いに喜び 直ちに芋種を求めてまず海浜各村へ高百石に對し種八個づつを配與して栽培を奨励せられたりしが 漸く蔓延して出雲伯耆の地に及び 悉くその餘澤に浴し 凶歳の苦厄を免るるに至れり

されば公の遺徳を数百年の後に仰ぎ 無窮の恩澤に感泣して 大森に井戸神社を建て その神霊を祠りたり
大正五年 縣社に列せらる

泰雲院殿の碑は石見国中各村に建設せられ 香萃の絶える時なし
世俗これを芋代官と称するに至れり
嗚呼 不惜身命の大遺徳は千古に盡きざるなり

というお話でした。

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