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宇多田ヒカルの新作MV「Gold 〜また逢う日まで」を見た


体調不良が続く日々の中、仕事も休まざるを得ない状況になって二ヶ月が過ぎた。

「とにかく安静にしろ」という医者の助言に従い、本当に部屋から一歩も出ない日が続いている。誰とも会わないし、話し相手も居ない。そもそも誰か聞いてくれる相手が居たとしても、家から出てないので話す話題も特にない。

生きてるのか死んでるのかも分からない。少なくとも誰とも会ってない自分の生死を判断する他者が居ないとはどういうことなのだろう。もし、自分の身に何かあったとしても誰も気付かない・・これって生きてる意味あるんだろうか!?


そんなことを思う日々の中、朝のテレビで宇多田ヒカルの新作MVがその日の夜にYouTubeで公開されることを知った。

自分は彼女の熱心なファンでも無く、ただそのMVの色味が良くって、惹きつけられた。

テレビでは「自身初の国内ロケを敢行。撮影は夜の新宿の街中で行われた。このMVの中で、宇多田さんは空を飛んでいるシーンがあるのですが、これはCGでは無く、実際にクレーンで吊られて、空中を待ったそうです」と言うことを知った。MVは、その日の夜21時に公開されるとのことで、気に留めていた。

事前に公開された15秒のティーザーとかいうショート動画を見た。この人は、本当に良い歌声をしている。わずか15秒の動画なのに、ぐっと心を掴まれた。

その日の21時過ぎ、そのことを思い出して改めて、宇多田ヒカルの「Gold 〜また逢う日まで」MVを見てみた。

良かった。

ひさびさに宇多田ヒカルの曲を聞いたが、やっぱり惹きつけられるものがある。何度も繰り返し、そのMVを見た。

自分は最近、いわゆるエモいものに弱くなり、エモいのを見るとすぐに涙してしまうようになった。もちろん彼女の新曲にも「エモさ」を感じて、涙した。


さて自分は時間を持て余してるわけなので、何度も擦り倒してMVを見たのだが、あることに気付いた。

というのも、注目されていると言われた「空中を飛ぶシーン」なのだが・・・あれ?彼女のお母さん(藤圭子のこと)って、飛び降りで死んでたよな?

そう思って、藤圭子のニュースを検索してみると、新宿にあるマンションのベランダから飛び降りたとのこと。このMVは夜の新宿の街で撮影された・・なんで、こんな内容のMVを撮ったのだろう・・・。


僕は、この「Gold」を聞く前は「花束を君に」という曲が大好きで、何度も繰り返し聞いていた。

初めてその曲を聞いたのは、車の中だった。その日は、足を複雑骨折してしまい長期入院を余儀なくされた母の見舞いの帰りだった。うちの母は、年齢のわりに若くは見える方なのだが、骨折したことに老いを感じ、随分と落ち込んでいた。そんな姿を見て、当たり前だがこの親子関係は永遠ではなく、いつかは終わりを向かえる。そんなことを感じさせられた、その帰り道に聞いた。

そして僕は、その歌声に一発で泣かされた。

理由は分からない。

そもそも歌を聞いて、泣く理由なんて理屈で説明できるものだろうか?「花束を君に」のことが気になったので、他の人がどんな感想を持ったのか知りたくて検索をしてみた。

すると「あの曲は亡き母に宛てた曲」とする考察記事のようなものが出て来た。

「普段からメイクしない君が薄化粧をした朝」と歌詞は始まる。この「薄化粧」とは死化粧のことでは無いか、とする説が書かれていた。

「始まりと終わりの狭間」って生死の間?・・・と言った具合に。

確かに歌詞に目を通すと思い当たるところはいくつもあった。

ただ、そのアウトプットの仕方が「私は苦しい・・」にフォーカスを当てたものではなく、「ありがとう」という感謝の気持ちを伝えたいものであるところに、またグッと来た。だから「花束を君に」は今でも好きな曲のひとつだ。


そして今回見た「Gold 〜また逢う日まで」に話を戻すと、なぜ自身の母親が飛び降り自殺という悲しい選択をしたのに、自身のMVで空中を舞うという、露悪的ともとられ兼ねないことを映像化したのだろうか?

しかしこの疑念はすぐ自分の中で解消した。

よく見ると・・いや、よく見なくても、彼女はMVの中で、クレーンに吊られ地上から空へと、まるで上昇するかのごとく舞い上がっているのだ。

これは自殺なんかじゃない。

もっとファンタジックな感じも見てとれるし、大袈裟にいうと生命賛歌のようなものでもあるじゃないか。

勝手にそう思って、またグッと来てしまった。


そもそも宇多田ヒカルという人は、15才の時にデビューし、いきなりCD売上げが200万枚を超えるという記録を叩き出し。

いってみれば、デビューと同時にピークを向かえたようなもので(実際に彼女のピークはデビュー時では終わらなかったのだけど)、それ以降、彼女の中ではずっと過去との自分との戦いの連続だったんじゃないだろうか?僕はそう思っている。そんな人はいったいどんなことを考えているんだろう。僕はそんなことに興味がある。

その後の彼女は、特にプライベートにおいては紆余曲折もあったものの、俗にいう一発屋では終わらず、未だシーンのトップを走っている、という存在だと思う。

ところが、当たり前のことなのだが彼女も一人の人間である。

こんな自分が言えることではないのだが、もちろん弱さも抱えていて、葛藤もある。

普通に生きてたら普通に感じることを、当たり前のように彼女も感じているはず。

ましてや母親の突然の訃報なんて、誰しもが受け入れるのに時間のかかることであると思う。

それだけ母親というのは大きな存在だとと思うから。


話が長くなったが、新作「Gold」の歌詞もそう読み取ろうとすれば、めちゃくちゃそうとしか思えないという見方も出来るし、もしかしたらそれは自分の勝手な解釈かも知れないし、本当のところは分からない。

これは持論なのだけど、歌詞も含め作品というものは、一旦作者の手を離れた時点で、その人のものではなくなると思うのだ。だから、それをどう解釈しようと、それはその人の自由だという理屈が自分の中では成り立つのだけど。

恐らく自分は考えすぎない傾向にあるので、これは考えすぎなのかも知れない・・・でも、わざわざあえて新宿の街中で撮る??って、やっぱり思ってしまうのだ。


かつてヨーロッパの芸術の世界では、批評は作品の上にあるものと考えられていたそうだが、これはそういう話じゃなくて。

批評家として世に出ようとすると、それなりに世に認められなければ当然、批評家としては成り立たなくなる、ということなのだが、今はSNSの時代である。

どこの誰か分からんような、人を評価するに値しないような糞みたいな奴が自論を書き散らしてるのが、ネット。

それがすべてとは言わないが、まだ玉石混合な状態であるのが、現状であると思う。それは良い面でもあるし、悪い面でもあるし、そんなことは自分みたいな者がどうこう言っても今さらだし、何の意味もない。現実はもう、ここにあるものだし。


ついつい癖で話が長くなってしまったが、すごく謙虚で、それこそ昔の男前の大物役者さんのように寡黙で、一切そういった影を見せようとしない。そうした人も素晴らしいと思うのだけど、宇多田ヒカルのようにちょっと見せてしまう。なんか感じてしまう部分がある。だけど、その先の落とし所には、共感がある。こういうスタイル、僕は大好きだったりする。

見せなくてもいいのに、ちょっとそれを感じるような部分も出しちゃう。そういう意地悪?な部分も、すごく好きだなーと僕は思った。

この僕の説がずれてないとするならば、の話なんだけど。


長くなりました。

長くなったのは、自説を書くにあたっての言い訳をしたかったが故だと自分では思っています。

憧れますね、宇多田さんみたいに詩と曲と歌という強力な武器を持って、作品として世にアウトプット出来る人のことを。

そして、そんな彼女も一人の人間だということを感じさせられたのも、自分としては大いに興味深かったです。


とっても面白い試みでした、宇多田ヒカルの「Gold」は。


宇多田ヒカル「Gold ~また逢う日まで~」Music Video
https://youtu.be/u-8R5n54toE

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