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桜の樹の下には情緒の屍が埋まってる

ほら、見てみろよ
道路脇の桜の樹の下に、日本人の情緒が、大和の情感が、侘び寂びが、誰からも相手にされなくなってへそ曲げて、そのまま朽ちて腐って埋まってるぜ
今年もまたストーリーやTLが、たいして映えてない桜色に染まるんだろうぜ
だがな桜よ、喜ぶんじゃねえぞ
あれは大阪駅の飛び降り女子高生の画像がネットで拡散されてるのと同じなんだよ
てめえの死を嘲笑ってネットの海に晒してるんだよ
なあ、情緒ってやつよ
てめえは死んだんだよ
SNSがてめえのゴルゴダの丘だよ
せいぜい樹に栄養をくれてやるんだな
そうすれば50年後か100年後か、またみんながお前を思い出すかもしれない
せいぜい来年もあの淡い花をつけてくれよな

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東京でも桜が満開だ

気が塞いでいたので昼休みに気分転換がてら近所の隅田川を散歩していたところ、満開の桜が目に入ったので思わず写真を撮った

以前から思っていたのだが、ソメイヨシノは写真が難しい
花弁の色が薄ため、無理やり彩度を上げたりコントラストをつけたりしないと、なんとも地味な画になりやすい
下から撮る構図になりやすいため、彩度を上げると今度は背景の青空が強くなりすぎて花が負けてしまう


そんなこんなで川沿いのベンチで加工に苦戦して、どうにか落ち着いた写真を眺めたところで、なんだか急に馬鹿らしくなってしまった

僕の加工技術の稚拙さは棚に上げておくとして、
そもそも桜なんてものは最初から「映え」に向いていないのだ、と自分に言い訳をしてみる

令和の女子高生100人が農林水産省をジャックしたら、国内の桜は全部引っこ抜かれて、代わりに薔薇だの向日葵だの、ネモフィラだのマリーゴールドだのに植え替えられることだろう
桜はかつての日本人には好まれていたようだが、現代の価値観にアップデートされていないのだ

帰り道、一応折角加工したのだからとストーリーに桜の写真を挙げて僕は考えてみた
あの隅田川河川敷の桜の樹の下には何が埋まってるのだろうかと

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かつて梶井基次郎という作家が書いた「桜の樹の下で」という話は、満開の桜が綺麗なのはその下に死体が埋まっているに違いないという飛躍した想像から、
生の美しさの裏には壮絶な死の影がちらつき、それが美しさを昇華させている、生と死、美と醜は表裏一体であるといった内容だ(と僕は理解している)

この梶井のもつ死生観というか、儚さに価値を感じる心は、たしかにかつて日本に広く浸透していたものだろう

今はどうだろうか

桜の花はSNSに映えないし、死はネットのおもちゃに成り下がった
アスファルトで舗装された道沿いの樹に死体を埋めておけるスペースがあるとは思えない
自分自身、かつての日本人的美意識を持ち続けていられているのか甚だ自信がない
桜は変わらず美しいような気がするが、それはそういうものとして教育されたからそう見えるだけで、自分の人生の過程で培った審美眼に本当に適っているのか

少なくとも日本人の、ひょっとしたら世界中の人の美に対する共通合意みたいなものがデジタルによって変容している気がする
それが正しいことなのかどうか、僕にはわからない
一つだけ確実なのは、人は変わっても、50年後も100年後も、きっと道端の桜の花の色は変わらないということだ

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