Margaret:心に秘めた愛(仮)

今日も彼に話しかけられなかった。そう小木恋(レン)は柱の裏で反省した。誰かが話しかけている時に割って入れない、小木のそういう優しさは確かに自分含めた万人を幸せにするが、こういったところで自分を不幸にしている。

「君らはいいよね…恥ずかしいとかそんなこと考えることないもんね。」

水槽の中で幸せそうに泳ぐグッピーにそう言ったって返事が返ってくるわけない、呼びかけ虚しく番かのように並んでそっぽを向いて泳いでいくだけだ。

すると小木の目からハイライトが消え、手提げが肩にかかっている左方向へ体が傾き出した。幸い水槽との激突は免れたものの、ものすごい勢いで倒れた。

いきなり意識がなくなり、10分程度で目覚めればそれは彼にとって幸運なことであり、ひどければまる四時間死んだように目覚めない━それが彼の生まれ持った体質である。今のところ彼に不利益しか与えていないこの体質は、彼の体調を蝕むだけでなく、彼の将来すら壊してしまう。

次に彼が気がついた時には保健室のベッドの上だった。白いカーテン越しに華奢な影が動く。女子の保健委員かと思い小木はカーテンを開けたが、そこにいたのは男子生徒だった。

小麦色のメンズマッシュやそれに似たようなニット地などの明るい色がよく似合い、端正な顔立ちをしている。そして転んだりでもしたら折れてしまいそうなくらい四股が華奢でそれは指も例外じゃなく、普通のシャーペンがいつもより大きく見える。

するとその彼はペンを止めて小木を見た。長いまつ毛でわからなかった大きい黒目が小木を捉える。

「…あ、起きたんですね。水槽の真横で気絶してたので何事かと。」

「君が運んできてくれたのかな?」

「僕じゃ運べそうになかったので先生呼びました。」

「そっか…ありがとう。もしかしたら僕、あそこに夜まで気絶したままだったかもしれないね。」

小木はそんなことを窓枠の中の空を見て言った。さっきのホームルーム中と変わらない淡い赤を時々青黒い雲が覆う、そんな空に小木は安堵を覚える。

「あ!君、そういえばお腹空いてない?」

「僕ですか?」

「うん、その…心配になっちゃうくらい細いからさ。」

そう言うと小木は残り2本となっていた、チョコのかかったプレッツェルを出した。リュックと手提げはベッドのすぐ横に腰掛けていた。

「…結構です。いただくのはありがたいんですけ…」

「いいからいいから。」と言いかけていた彼の口に無理やりプレッツェルを突っ込んだ。ポキッといい音が鳴るとそれは半分に折れサクサクと食べ進めていくが、岸の表情にあまり変化はない。

「美味しいでしょ?」と小木が聞くと華奢な彼は否定しなかった。小動物の餌やりみたいな感覚が小木の中にあった。

「そうだ!僕、実家がレストランやってて、お菓子の試作品とかよく学校に持ってきてるんだけど味見して欲しいなあ。」

「え、お、俺ですか?」と思わず彼は素の一人称が出てしまう。さっき気絶してるところを見つけて、そしたらお菓子をくれただけのほぼ他人だ。そのリアクションに無理はない。

「うん、いろんな人に食べてもらいたいし。わかってると思うけど僕、こんなんだからちょっと自信なくって。」

「…わかりました。」と彼は答えた。まずいかもしれない以外にリスクはなく、一人暮らしの食費もちょっとは浮くと断定した結果である。

「ありがとう。クラスとお名前聞いてもいいかな?僕は小木恋、3年1組!」

「岸久…1年1組です。」


岸は結局、保健室の先生が戻ってくるまで帰ることはできず、帰ってきた先生も追い出すような形で岸を帰らせた。

彼にとっては日陰者扱いはもはや日常なので何も感じないのがいつものことなのだが今日はなぜかそうではなく、もっと小木といたいと思っていたのはどういうことなのだろうか。

中古のアパートの一室、それが彼の住処である。ドアを開けたとしても挨拶はしない。家族と仲が悪いわけでも、今日が特別不機嫌というわけでもない…というかその方が幸せなのかもしれない。

─そもそも彼にはそういった挨拶をしたり不機嫌を察してくれる『家族』という存在がいない。彼という存在はいるので間違いなく生みの親はいたのだろうけどその人の顔を見たことがない。捨てられたのか死別なのかも彼は知らない。

ただ、彼がわかるのは児童養護施設の職員は間違いなく育ての親であるということだけだ。

ベッドに広げられた服に着替えて、彼は終わっていない課題を始めた。今日もらったプレッツェルのせいで心とお腹は全く空かなかった。


翌日、岸が学校に行くためにアパートから出ると青年が待ち構えていた。

岸よりはよっぽど高い彼─倉本御月はとても一般人とは思えない輝かしいオーラを放っている。それは彼が洗練されているからなのかと岸は納得している。

「おはよう!」と彼は元気がよく、それを見ると岸は安心を覚える。

「今日はお仕事はないんですか?」と岸は倉本に聞くと「今日はオフだよ!だから1日学校にいれる!」と元気に返事が返ってきた。

「それでさ…今日、一緒に帰ろう?」と倉本は言ってきた。いつもだったらYesで返す岸だが今日は違った。

「今日はその…先約がいて…」

その時岸は見ていなかったが、倉本の表情は一瞬曇った。

「…へえー。人間嫌いの久がねー。」

「たまたま人助けみたいなことをしたら、お礼に料理くれるって言うので。」

「なにそれ浦島太郎かよ。」と倉本は笑った。岸は少し腹立たしくなったが、相手が先輩なのもあり頑張って抑えた。

「それで、誰を助けたらそうなったの?」

「小木先輩。」

「うっわー、女子敵に回しちゃったじゃん。」

そう言う倉本に岸は「は?」としか返せなかった。岸にとって学校はあくまで学業をする場なのであって、誰がどういう噂があるとか誰が信用できるとかは特にどうでもよかったのだ。

「小木先輩ってアレでしょ?料理部部長の。」

「あの人、そうなんですか?」

「有名だよー!」なんていう噂話をしていたら校門が見えてきた。

倉本と別れ、岸は自分の教室に入ろうとしたらクラスの女子たちに迫られた。

「岸くん!倉本先輩のお知り合い⁈」

「中学校が一緒だった。」

「えー、いーなー!詳しく知りたーい!」

「やだ。」と岸は冷たく引き離すと自分の席についた。彼女たちは諦めてくれたようでどこかへ行ってしまった。

岸はこういう風に、倉本といるだけで一々キャーキャー言われるようになったのはつい最近だったりする。確かに倉本は昔からタレントをやっていたが、中学時代は地元に普通にいたので特に誰も驚かなかったのである。


放課後、誰もいない教室で岸は一人勉強をしていた。小学校高学年の頃からやっていて岸からすればもはや習慣と化している。しかし、今日はどうもペンが進まないようで岸は度々ため息をついた。

どうして会って1日も経っていない相手のために待っているのか、岸自身もよくわかっていなかったのだ。いつもだったら他人なんかどうでもいいので帰ってしまうのだが、今日はそうも行かない。彼は食費が惜しいのだと思うことにしてまたペンを進めた。

ガララと引き戸の音がすると岸はペンを止めそちらの方向を見た。小木一人でくると思っていた岸だったが、小木だけでなく他にもう一人先輩らしき人が来たのでさらに緊張した。

(岸自身も人のことは言えないが)金髪だしピアスは空いているしお化粧もばっちりで、何より美しい。しかし、彼は見た目とは裏腹に岸と目を合わせるどころか、床ばかりを見つめている。

「メバルくん、大丈夫だから。ご挨拶できる?」

メバルと呼ばれた彼は頷くとゆっくり話し始めた。

「志麻…メバル…です。」

「よく言えましたー!」と小木は志麻の頭を撫でた。撫でられた彼は下を向いたままといえどとても嬉しそうであった。

岸も慌てて自分の名前を名乗ると、小木は「二人とも自己紹介できて偉いね。」と言い志麻を連れて岸の席付近に来た。小木は岸の前の席の椅子に、志麻は窓の額縁に座った。

「俺の隣の席とかも空いていますが…」と岸は言ったが、それを小木は「そういうこだわりがあるんだよね。」と説明した。

小木は手提げからいくつも駄菓子を出した後に綺麗なラッピング袋が出てきた。片側がスケルトンになっており、その中には半分にチョコレートがかかったオレンジの輪切りが何枚か入っていた。

「これ、『オランジェット』っていう…見たまんまのものなんだけど。」

小木はそう言うと包を岸にあげた。岸は感謝を述べ、それをバッグにしまった。本当はもう帰ってしまいたかったが、まだ終わっていない課題があったのでそれに集中した。

黙々と課題を終わらせていく岸だが、どうにも集中できない。ずっと暗い表情だった志麻は小木からお菓子をもらっては嬉しそうにそれをいただいている。━小木とそういった関係になりたいと岸本人は自覚していないが、奥底ではそう叫んでいた。

すると、教科書を持っている岸の手を小木が軽くこづいた。気づいた岸が顔をあげると、小木はアイスクリームを模したお菓子を持っていた。

「食べる?」と小木に言われ岸がうなづくと、そのアイスクリーム風の菓子が差し出され岸は一口いただいた。昔施設でもらって以来、こういった駄菓子の部類はもらってなかったこともあり岸は懐かしい甘さを思い出した。

すると、さっき一口いただいたアイスクリーム風の菓子の残りを小木がいただいた。志麻はそれに驚く様子はなかったが岸はそうではなかった。少女漫画の主人公だったら間違いなく間接チューだなんだと騒ぐ事態に岸は追い付かなかった…というよりも、男相手にそういうことを考える自分に驚いた。

「先輩って料理部なんですか?」と岸は静かに聞いてみた。すると小木は特別リアクションはせず「ん?そうだよ。」とアイスクリーム風の菓子を食べ終わった。

「誰かから聞いたの?」

「倉本先輩です。」と岸は返したら質問してきた小木は「そっかー。」としか返さなかった。その反応に、かえって岸は驚きを隠せなかった。

「なんで驚かないんですか?」

「え?だって生徒じゃん。学校に仲良い人が一人や二人はいて当然だと思うけど。メバルくんもよくしてもらってるもんね。」

そう言われた志麻は黙ってうなづいた。

キャーキャー言ってきた女子たちと比べるとこうも落ち着いて話ができる人は学校の中でもこの人だけなんじゃないか、岸はそうとすら思い始めていた。

「そういえば志麻先輩と小木先輩はどういったお知り合いなんですか?」

「言っても大丈夫?」と志麻に確認をとった上で小木は話し始めた。

「メバルくんは発達障害でね。それこそ普通の学校には来れるんだけど、仲間がいないと心細いでしょ?それで僕の店で集まりを開いてみたらメバルくんがいたんだよね。」

『発達障害』─要は生まれつき脳の働き方が特異なのである。岸が小学生だった頃にもそういう人物がいたが、志麻のような大人しいタイプではなかったので聞いて初めて分かったのである。

「あの、それって俺も参加できますか?」

「もちろん!久くんみたいな優しい子ならみんな歓迎するんじゃないかな?そしたら…」

そう言って小木は名刺サイズの紙を岸に渡した。おしゃれな風貌のそれには『』という名前があった。

「明日ちょうど集まりがあるから来てみたらどうかな?確か…『お勉強を頑張る会』って聞いてるよ。あってる?メバルくん。」

聞かれた志麻は一回うなづいた。しかし、彼はよそ見をして教室の時計を見ていた。時刻は午後2時であった。そして「小木先輩、時間大丈夫ですか?」と志麻は小木に聞くと「そうだね、名残惜しいけど。」と少し寂しそうにしたのを見て岸は時間の少なさを実感した。

最初の半分ほどの菓子を手提げに詰め始めた小木に岸は「また…お菓子食べたいです。」と言うと小木は「もちろん。」とだけ返した。それが彼らの今日最後の会話であった。

小木らが帰った後も自主勉強に励んでいた岸であったが、先程の小さい賑わいがなくなった途端に何も頭に入らない。今手につけている数学も間違いばかりになってしまっている。易い問題を何問も間違え、岸はついにそれらを放り出して机に突っ伏した。

昨日会ったばかりの実質他人一人にこんなに心を引っ掻き回されたのはいつぶりであろうか?こんなに優しく接してくれるのは倉本以外いないと思っていたのに。そんなことが彼の中でぐるぐると渦を巻き脳内を侵食する。今日はその渦が彼を眠りに誘い込んだ。

その教室に倉本がやってきた。彼は結局、近くにいたクラスメイトだったり他学年の女子だったりの相手をしていたもので昼食は自動的に抜きということになった。今日はその上に岸と帰れないと思っていたものだからこの偶然は愛想が報われたものだと彼は確信した。

倉本はさっき小木が座っていたところに座ると眠っている岸を見つめた。小さくて華奢で美しい─倉本は自身が芸能人でありながらも岸をそんな風に見ていた。倉本は岸の頭を撫でた、と同時に直毛の金髪すら愛おしくなっていた。

結局倉本は岸を起こさず帰ってしまい、彼が起きたのは警備員に起こされてのことだった。


次の日も倉本はオフの日だったようで岸と一緒に登校した。しかし、倉本に昨日のような元気はなく落胆の色が非常に濃い。

「今日も久と帰れないのかー。」

「はい、小木先輩と約束したので。」

「久さー、そんなに小木のこと気に入ったの?」

「…まだわかんないです。でも、今回は信じてみたいって思ったんです。」

そう言うと岸は何もついていないピアス穴を触った。最後に空けられてしまった穴が岸にとってはまだ痛む気がする。

倉本もまた苦しい顔をしたが、それはどこか嫉妬に塗れたもであった。


岸がそこを尋ねたのはその日の放課後のことだった。

「『Liar Bat』…ここか。」

学校から徒歩8分、小木の言っていたレストラン『Liar Bat』はあった。黒を基調としたスタイリッシュなお店で、住宅地の中からいきなり出てくるものだから岸は少し意外とすら思った。

ドアをくぐると大きめの声で「いらっしゃいませ!」と聞こえてきた。声の主は小木ではなかったが、岸は知っていた。

顔の輪郭と涙袋はぷっくりしていて全体的に愛らしい印象を受ける少年━那智萌(メグム)は岸に気づいたようだった。

「えっと…岸久くんだよね!」

那智は笑顔で岸を迎えるが、迎えられた側の岸はとっとと帰りたいと顔に書いてあった。小木に会えさえすればそれでいいのに同級生、それも同じクラスの人に見つかるだなんて最悪としか岸は思えなかった。

「そうだ!conectの友達登録しようよ!確か岸くんだけクラスルーム入ってなかったと思うし。」

「やめろ!余計なお世話だ!アンタとはクラスが一緒なだけで友達でもなんでもないだろ!」

「えー、じゃあ今から友達ね!」

「勝手に友達にするなあ!」

店内だというのにギャアギャアと騒いでいると、小木が厨房から出てきて「落ち着いて、お客さんびっくりしちゃうよ。」と宥めた。

那智に案内されて岸はソファに座った。さっき見たシュッとした外装とは打って変わり、案外店内は明るく、謎のファンがついた照明やソファが基本のテーブルセット、モノトーンではあるものの暗くなっていない。安心感はあるものの、落ち着かないものは落ち着かないので岸はスマホをいじって待つことにした。

少し待っていると厨房から人が来たような気がしたので岸は小木かと思ったが、その期待を裏切り那智はやってきた。

「アンタ、バイト中じゃないのかよ!」

「休憩入ったから小木先輩のお料理食べるー!で、携帯はこれだね!」

そう言って那智は岸が持っていたスマホを慣れた手つきで取っていった。岸は力づくで取り返そうとするが、那智の方が身長が高く敵わなかった。

岸本人にそのスマホが返ってきた頃には『めぐむん』という名のアカウントが登録され、すでにクラスルームに招待されている状態だった。

「これで僕もお友達一人増えたー!」とはしゃぐ那智を岸は怨嗟の目で見るのだった。

「萌また強引に友達増やしたの?あんまりやるとせっかく増やした友達減っちゃうよ?」

後ろから聞こえた声に岸はびっくりしたが、その声の主が小木だとわかった瞬間安心した。岸はシェフがよく着るような着替えを想像していたがそれを裏切ることは全くなく、両手には2段積まれたパンケーキが皿の上に鎮座している。

「小木先輩!これって前から言ってた例のやつですよね!」

「はい、そうです。」と置かれたそれはシロップだったりバニラアイスだったり、後は岸には何かはわからなかったが何某か果実が乗っている。

そんなことを岸が視診していると、隣の那智はすでに頂いていたようで「んー!」と言ってそれを味わっている。岸もいただくと、爽やかな酸味の中にしつこくない甘味、パンケーキだというのに重くもくどくもないので衝撃を覚えた。

「これ…梅ですか?」

「そーだよー!」

「お前には聞いてないから!」

やいのやいのと二人のしょうもない喧嘩を見ていると、小木はアライグマ同士が両手を上げている時の光景を思い出した。

岸と那智がひと回り言い合って少し間が空いた時に、8人ほどの男女がわらわらと入ってきた。その中には志麻の姿があり、3人は察した。

「ようこそ。お越しいただきましてありがとうございます。」

「そんなペコペコしなくたっていいよ、いつものことじゃない。」

小木が大人の挨拶を繰り広げる相手は妙齢に見える女性であった。短パンから伸びる足は細く、紅色の数珠状のアクセサリーは白くて華奢な手によく映える。岸は彼女に見惚れていると、向こうの方から近づいてきた。

「萌くん!今日はバイト終わり?」

「いえ、これ食べ終わったらまたがんばります!それで隣の…」

「岸久くん…だよね?」

知らない人から名前を呼ばれた岸は少しびっくりしてしまったようで、肩を揺らしてしまった。

「ああ、自己紹介がまだだったね。私は志島霞。『マッシュ』っていう障がい者コミュニティの代表をしているよ。久くんのことはメバルと恋くんから聞いていてね。」

そう彼女─志島が言っている間にもコミュニティのメンバーは各々席に座る。すると、小学生くらいの女の子が梅のパンケーキに興味津々であることに岸は気づいた。

「おかーさん!このパンケーキ食べたい!」と彼女が志島に訴えかけると「皐月、今日はお勉強しにきたんでしょ?」と諭した。しかし、彼女━皐月は聞く気がないようでずっと駄々をこねている。

すると、岸は自分の分を一口切り分けて皐月の元へやってきた。

「僕、2段も食べられそうにないからよかったら一緒に食べてくれない?」

「やったー!おにーさんありがとー!」

そう言って皐月はパンケーキを一口頬張ると、さながら梅干しのような顔をした。

「もう一口いる?」

「いい!」と言って皐月は大人の集団の中へ紛れていった。「2段は多いの?僕が食べるよ!」と那智は言うのを岸は「お前にやる分はない。」とまた食べ始めた。

その大人の集団の中には当然志麻もいるのであって、机の上にノートだったり参考書だったりを広げ始めた。隣でも皐月が青いドリルだったり薄く数字が書かれたノートだったりを出し始めた。志麻は黙々と進める一方、皐月の方は開始数分でさじを投げてしまった。

「これわかんないー!」

「あー、これは…」と志島が解説するも、それが皐月に伝わることはなかった。終いには聞く様子すら見せず「もういい!おにーちゃんに聞いてくる!」と言って岸たちの方へノートを持ってきた。

「おにーちゃん、ここわかんない!」

そう言って皐月がノートを差し出した相手は岸だった。岸は半分ほど残っていたパンケーキをどかしノートを置かせた。そして懇切丁寧に教えてやると皐月は納得の表情を見せた。

「ありがとーおにーちゃん!おかーさんよりわかりやすい!」

『おかーさんよりわかりやすい』という言葉におかーさん当人は若干傷ついた様子であることはつゆ知らず、岸は何やら暖かくなった。

「僕もわかんないところがあるから後で教えてー!」と那智もエナメルを漁ったが岸は拒否したのだった。


午後6時、勉強会は終わった。皐月のノートなり漢字ドリルなりが広げられる一方、岸や那智の使っていたテーブルに皿はなく、各々の課題が広がっていた。広間に小木と那智はおらず、厨房から水の音が頻繁にする。

「おにーちゃん、今日はありがとう!」と皐月に言われすっかりデレデレになっていた岸に志島は野口札を束で渡した。

「こんなに貰えないです!」と岸は志島の札束を拒否したが志島は続けた。

「岸君、バイト何かやってる?」

「いえ、今は施設の仕送りで。」

「…もしよかったらうちで家庭教師やらない?皐月、心臓の病気持ってるからちゃんと学校に通えていなくって。」

それを言われて岸はいろんな意味で衝撃を受けた。自分がバイト勧誘されることに対してはもちろん、こんなに元気な子供が心臓病もちだなんて考えてなかったのである。

「でも…」と岸は何某か理由をつけたかったが、上手い理由が見つからなかったので承諾することになった。

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