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Ho Chi Minh in 2014 #1

深夜に上陸するという台風に備えて、夫が家中の雨戸を閉めて回っていたある夜、突然、私の胸元に小さな虚無が去来する。日曜の夕暮れ時に感じる物悲しさにも似た感覚。明日は月曜でも9月でもないのに…と思った瞬間、その小さな虚無はあっという間に巨大化し、息を吸う勢いで私の全身を飲み込んでしまう。『ひとりだ』。 そんな声が脳内に響く。すでに強くなっていた風が、雨戸を容赦なく叩く。パラパラと舞う雨。テレビの笑い声が遠のく。私は絶望的にひとりだ。わかっていた。なぜ気づかなかった?沈んでいく意識が自問自答する。『全ては無意味だ。』そんな“悟り“が舞い降りる。絶望的にひとりならば、この世の中に意味のあるものなどあるわけがない。
ならば、なぜ、生きているんだ?
目に見えない大きな鉛の塊が、頭の周りにどんよりとのしかかる。重い。ゆっくりと首を振ると、少し遅れて鉛も大きく横を向き、その振動が脳に伝わる。喉元が詰まり唾が飲み込めない。呼吸が浅くなる。虚無の手がキュッと心臓を掴んでいる。『なぜ生きているんだ?』自問自答は脅迫に変わる。身動きが取れない。意味なんてない。ならば、なぜ…。

夫は雨戸を閉め切ってキッチンへ入る。ビールいる?と声がする。ビールがいるのかどうかわからない。随分とどうでもいい決断ばかりに時間を費やしてきたようだ。鉛はもう、私の足先まですっぽり包み込んでしまった。言葉が出ない。『助けて!』しかし救いなどないことはわかっている。いや、助けられたところで、待っているのは、果てしなく続く孤独と絶望の日々なのだ。

突如、数年前に行ったベトナムでの出来事が、まぶたの奥に蘇る。日に焼けた小さな老人。老人は、バインミーの屋台の横に座っていて、私が日本人ということを知ると、「ヨメーシュ、ヨメーシュ」と話しかけてきた。「ヨメーシュ?」なんのことなのか分からず、屋台の女主人に助けを促す。しかし関心なしとばかりに首を傾げる。それでも老人は根気強く繰り返す。老人は現地の言葉で女主人に何かを言う。パンに切り込みを入れながら、女主人は私に「ドリンク、ドリンク」と言って何かを飲むジェスチャーをする。私は合点する。「養命酒?ドリンク?ヘルシー?」老人は大きく頷く。念のため、スマートフォンで養命酒の写真を検索して差し出す。老人は小さな体を私の方へ寄せ一緒にスマホを覗く。私の肩ほどの背しかない。そして、油か何かで真っ黒になっている指を刺し向けて、嬉しそうに「ヨメーシュ!」と言う。老人は礼儀正しく私の隣を離れ、また定位置に戻ると、スマホと自分を交互に指差しながら「ヨメーシュ!」と言って笑う。「ヒー ドリンク エブリデイ」女主人も笑う。私たちはみんな笑っている。しかしこれ以上の深掘りを可能にする言語能力は、ここの誰も持ち合わせていない。私は養命酒など飲んだことはないけれど、この目の前で笑っている老人に送ってあげることを約束したらどんなにか喜ぶだろうと考える。この老人もそれを期待しているのかもしれない。結局私はなにも約束しない。ひとしきり笑って、バインミーを受け取ると、「ヨーメーシュ!」といってその場を立ち去る。老人も頷きながら「ヨメーシュ」と笑う。それきり。最後に振り返った時、老人の姿はもう見えなくなっている。ごめんなさい。
あれから数年。1日に1滴しか飲んでいかなったとしても、もうとっくに飲み切っているだろう。次のボトルがすんなりと手に入っているといいけど。もしこの鉛が取れるなら、養命酒を持ってベトナムに行くのに。あの老人を探し出すのは難しいけれど、屋台ならまだあるかもしれない。そうすれば、きっと、あの老人に渡すことができる。


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