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個性の尊重ってなんだろう。教育という世界に物申す朝。

※誤字脱字後で直す

冒頭に貼ってるプリント。我が子が持って帰ってきたプリントを発掘したら出てきた。(今朝)早く出してください…

というわけで、制服生活が始まったのですが、自我の芽生えた思春期のタイミングに、このように様々なことを抑制してしまってるのって、人を「信じてない」からだよなーと思う。

「人は悪いことをする」ということを前提とした日本のルールのつくり方に気づいたのは、フィンランドに行った時だった。

「人はずるい事をする」という前提の仕組みの作り方にはコストがかかる。監視するための人員に払うお給与、監視するための機械や仕組み。それらを扱うための人や仕組み。もうね、お金がいくらあっても足りないんだわ。

それを、公共施設がやってしまうのだから、税金はいつまでも高いまんまなんだね。公的な施設の運営というのは、私たちの税金で賄われていますから。

それはさておき、この学校の校長先生は、入学式の時にとても素晴らしい挨拶をされた。「個性を大切に」とおっしゃった。

その「個性」とは一体なんなのか。このプリントからは、個性を殺すことしか見えてこない。制服の規定、様相の規定。もちろん、ルールは必要だろう。しかし、そんな規定の中で、自由な発想を!グローバルで勝ち抜くために!ダイバーシティ!といって導入されようとしている、様々な教育思想や手法って、意味をなくしてしまう。

教育論者は皆が一様に、教育的な手法に対して論じるが、手法や中身だけ考えても意味はない。

わたしは、普段の生活や環境を考えた上で、コンテンツの設計や施設の運営を設計する。

本来の子供の仕事はなんだろう?と考えた時に、「人の言う事を聞くチカラ」が、このプリントからは見えてしまって苦しくなった。

もちろんわたしも、このようなルールの中で学生時代を過ごしてきた身なので、なんとなく従順に「しょうがないよね」と感じる部分はあるけれど、今世の中が求める、いえ、日本国内で求められている人材とやらは、こんな従順な人間形成の話ではなく、もっとアグレッシブに!発想豊かな!子供の発想は無限だ!なんて、乗せまくってる割にこれだ。現実との乖離甚だしいのだ。

その上で、果たして、我が子がどこで、どこまで、この現実に適応してくのか。


正直、息子以上に、自分が適応できる自信がない…。

9月入学とか、ほんとどーでもいい。そんな話より、学校運営のあり方と、現実社会の乖離を早く縮めてくれんかね。

子供の数が減ってるけど、中学受験は人気なんだよね。それって、子供の人生を楽に、スムーズに進むようにしてあげたい。イコール、教育的ストレスからかいほうされたい、少々のお金がかかっても良い。という背景が少なからずあるはずだ。

学校は楽しくちゃダメなのかな?楽しくて良いのでは?楽しんだら負けなの?今って、そんなに我慢しなきゃいけない時代かな?

広告だって、マスに対するアプローチより、より個人に対してアプローチできるような仕組みになってるよ。もちろんまだまだ高齢者が多いのでテレビや新聞なんかの昔ながらのものは残ってますが、残りづらくなりますよね。

コロナの影響で、当たり前だと思ってた集団移動もなかなか回復の兆しがない。多分、数年はかかるんじゃないかと専門家も言ってる。でも、集団移動を支えていた交通インフラを提供してくださっていた企業は、相当のコストをかけて、それらを管理し運行してたわけですが、その大手と言われ、働きたい、働かせたいネームバリューのある企業の存続すらも危ぶまれるレベルで、これだけ皆が移動を極力減らした働き方を継続する企業がリモートワークをこのまま継続する話とか、Googleだって、今後オフィス縮小してく。って話とか、リモートワークでも生産性は下がらなかった事を実証したコロナの影響での企業で出された結果ってのは、本当に時代の変化だ。

これってAIがどうとか関係ないからね。明らかに、ネットの恩恵、コンピュータの一般家庭や働く人々への圧倒的な普及により、実現した結果であって、それがよ。

学校はどうなの。全く持ってついていけてない中で、何を教えてくれるんだろう?そんなこと知りませんではもうすまされんよね。

って時代の中で、個性というより、個々の事情や環境に合わせた解決策を見つけられる人ってのが求められ、その解決したことの集まりが、人を豊かにするのである。

そんな中で、眉毛に手を入れるなとか、髪の長さがとか、そんな話、いる?

それも、何枚もの学習用プリントに紛れて、お知らせプリントが毎日10枚以上配られて、渡さないのはあなたの子供が悪い。読まないのは親が察して何とかして読め。

というような想像力しかない状況は、早く脱してほしいし、思考停止しまくってるんだから、何とかしようと動かないと、まじ、一人一台のパソコンとかの前に、連絡方法とか、伝えるべき情報の整理、伝える回数やお知らせがあるタイミングのスケジュール管理とか、そんなん、普通の企業でもやってるんだから教えてください、ほんとお願いします…。

二極化どうするのとか言われるかも知んないけど、スマホも使えないほどの生活基準の人なんかいないでしょ。それに、そういう人の方が少ないわけで、そんなの人数把握して対応すれば良いのだから、それこそ、個性の尊重の個別対応だと思うんやけどね…。

教育の周りには、お金儲けを狙った有象無象がある。「シェア」と呼んで、そこを抑えてビジネスにしようとする人たちもたくさんいる。

でも親としては、そんなことより、いまなら、当事者のわたしが全部コンサルしたいレベルだーーーー!!!!!全学校に入りたいレベル!!!

現場わからないくせに!とか言われるけど、子育ての現場わかってない人たちが決めてる現実はほんとよくない。

フィンランドが福祉国家と言われる所以をご存知ですか?あの国は、人口約500万人ぐらい(ざっくり)、バルト海を挟んで、沢山の戦争の中を潜り抜けてきた国だ。男性は戦場に行ってしまう間に、残った女性が国の運営を司った。その中で培われた、生活に密着した視点での政策を実行。それは、当事者が意見を出してきた結果だ。福祉が充実しているのも、教育が充実しているのも、そういう背景がある。

また、一番感銘を受けたのは「そんなに悪い人間はいない」という考え方だ。

キセル乗車を取り締まるような改札もない。ただ乗るだけ。たまーに、抜き打ちでチケットの確認をする人が来たりするそうだけど、そもそもそんなに悪いことするひといないって考え方のもとに構築されたシステムのシンプルさ。利用のしやすさ。

教育も同じ。何より保護者が先生を信頼していて、お任せできる環境であり、先生の先生が学校内に配備されており、先生個人が、教材選択から、学ぶ場所や授業スタイルまで、全て権限を持ち、実行できる。だからこそ、常に、自らを律して学ぶ環境になっている。

いくらコンテンツだけを真似しようとしても、意味がないんだよね。システムごと設計しないと。わたしはプロダクトやシステム設計をずっとやってきたので、そういう目で見るのが当たり前だけど、日本って割とそのあたりが抜けてるなと思う。

そんな視点をもとに、自分が利用するプロダクトは、当事者意識を重視してやってる。

というわけで、長くなったが、今日も朝から細かい管理体制の中で息子氏を動かさないとならなくって、あらかたのルールは習慣性という観点で必要だけど、必要ないもののために、振り回されるのは嫌だなと思って書きました。

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