帰省と感情

私は学生でそこそこの頻度で実家に帰るのだが、実家までは鈍行の電車にちんたらと揺られるのだ。関東平野を縦断するような形で列車に乗る。一応、下宿先の最寄り駅は電車が始発で出るので、15両編成の14号車か15号車のボックス席に決まって座り、乗客が少ないのをいいことに隣に荷物を置いてパーソナルスペースを確保するのである。とはいえ、靴を脱いで対面の座席に足を投げ出すほどの勇気はなく、中途半端に結界な張っているにすぎないのだが、それでも向かいに人が乗って来ることは稀である。
私はここから読書をする事が多い。
電車の運行について全く明るくないので詳しくはわからないが、大抵の場合、乗車してからそこそこの時間出発せずに止まっている。その間はできるだけ、ドアのボタンを押し、ドアを閉め、静かな空間にしてから本を開く。私はかなりの乱読家なのでその本がエッセイであるときもあれば、学術書のときもあるし、ライトノベルのときもある。私にとって電車に乗っている時間というのは、貴重な本に集中できる時間なのだ。
電車が出発する。本を読み続ける。そうすると、少しずつ思考の沼が姿を表してくる。電車は当然駅ごとに止まる。そこで、目的地についていないとわかっていても、列車が駅に着くたびに顔を上げてしまう。そこからふと窓の外を見てしまうとそこそこの確率で本を読むことを忘れてしまう。流れていく風景に目と僅かばかりの集中力を取られてしまうのだ。この列車は関東平野をひたすらに南下して行くため、トンネルなどはなく、延々とほとんど平らな大地が続く。駅舎があって少しの住宅街と農地が広がっている場所もあれば、綺麗に区画が整理され未来を感じられるような若い住宅街もあり、おそらく一生名前も知ることもない公立の中学があったり、見知った名前のチェーン店が並ぶ栄えた駅前の街もある。外を眺めるたびに新しい発見があり、逆にあったはずのものがなくなっていたりする。刻一刻と移り変わる車窓に子供のように釘付けになる。
移り変わる車窓や街並みとは全く対照的に私はいつも泣きそうに、ひたすらに泣きたくなってしまう。
それが、都会で生まれた育った者の幻肢痛的なノスタルジーなのか、ここではないどこかへ消えてしまいたい欲望からなのかは一切不明だが、とにかく泣きたくなる。悲しいわけでも辛いわけでもないが。
とはいえわかっていることも多少はある。例えば、この田園地帯で生をうけたなら、この閑散とした商店街を駅前に持つ街で産まれたのなら、と反実仮想をしてしまう。この平坦な、遮るものがない平野を通学のために、燦々と照る太陽の下、だらだらと汗をかきながら自転車を漕いでいたのだろうかや、物心ついた時からの友人がたくさんいて、その友人達と一緒に歳を重ねていく、なんていう妄想をしてしまう。
段々と地元である東京に近づいていく。そうなると、少しずつ乗車率も増えてきて、わずかながらに設けた私のボックス席のパーソナルな空間も人に明け渡す。東京に入り、山手線の区間内に入るとほとんど座席は埋まり、立っている乗客も増えてくる。その時には、私が感じていたはずの形容し難い感情も薄れていく。巨大なビルが立ち並び、都市に人が溢れる大都会の大きさに圧倒される。のびのびとした空間などなく、人間を集め、搾取し、消費する事でしか存在をしめすことができない都市に帰ってきた。休日には人が溢れ返り、若者が楽しそうに過ごす渋谷や新宿を見たり、平日には暗い顔をしたサラリーマンたちがスマホと睨めっこをしている都市。何も生み出さない、空虚な都市。しかし、私はこれで良いのだと思う。私はただ、いてもいなくても良い存在になれたのだと感じる。空気より透明で、それでいて空気より希薄な、何も持たないものとして、誰からも認知されようがない存在になれたのだと。私はひどく安心する。これが生まれ育った場所に帰って来ることなのだと。

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