夜の確定記述
「夜の話をしよう」
誰かがそう言った途端に私の世界は夜になっていた。
「夜は固く、暗い。」
詩的に呟いたものがいた。その言葉を認識した途端、ほとんど暗黒と言って差し支えない暗さにあった。ただ暗いだけではない、和気藹々としているような、それまで私はどのように過ごしていたかわからないが、空気ではない。張り詰めたような緊張感に包まれている。理解を超えた状態に戸惑いながらも私は場の雰囲気に呑まれ黙ることしかできなかった。
「夜の強度は限りなく低いだろう。」
別の誰かが言った。当然、夜であるから顔はわからない。顔を突き合わせて議論をしていると私は思っているが、もしかしたらそうではないかもしれない。声の質もわからない。彼、いや彼女である可能性もある、はたまたそのような分類に生物学的にも当てはまらないかもしれない声はかなり断定的に言った。ゆっくりと空気感というべきか、堅苦しいような雰囲気は崩れてきている。声の主は続けて
「夜は昼の逆として存在しており、夜単体で存在することはない。よって夜の強度はかなり低いと言えるだろう。」
と言った。途端に夜ではなくなった。辺りは明るくなってきているようだ。ここは夜ではなくなった。私は妙な安堵感があった。息苦しさがなくなったというべきか。とにかく夜ではない。それだけは言える。夜の終わりに白飛びしていた視覚が戻ろうしている。
「夜は脆くはないだろう。昼が存在しなくとも夜は存在し得るからだ。」
そんな反論が、夜の脆さの説明が終わった瞬間にあがった。顔も声も不明瞭だが誰かからあがった。そんな真っ向から反対するような意見を出し、場に緊張が走った、というより夜の固さが戻ってきた。刹那、夜になる。あっという間に、発言したのが誰なのか、何処にいるのか、もしくはいないのかもわからなくなっている。夜が崩れたのが嘘のように、そこには堅牢な夜がある。反論の声が上がると、夜ではなかった状態から正真正銘の夜に戻った。戻ったという感覚があったという方が正しいかもしれない。声の主はさらに
「昼を消すことを考えよう。私たちに降り注ぐ太陽を大きな物体で覆い隠し、永遠にそこにあり続けたとして、私たちはその状態をも夜と呼ぶだろう。」
と言い放った。この瞬間に夜が深まった。より、暗くなったと言い換えてもいいだろう。元々視覚が機能しないほどに暗いが、夜の密度が高まったためにさらに暗くなった。息苦しさも増している。
夜の密度は依然として高いままだ。
「夜は冷える。」
誰かが呟いた。確かに肌寒い。この場にいるであろう誰かは釦を閉めた。おそらく外套の類いだろう。また他のある者の吐息が聞こえる。それで暖を取っているのだろうか。
「夜は太陽が隠れる。また、夜に活動するものは昼に活動するものより少ないために、冷える。さらに、太陽を覆い隠し、昼がなくとも太陽からの熱は未だ存在するだろう。夜の中の夜にあっても冷えることは間違いない。」
諦めたように誰かがいうと、一層冷え込んだ。肌寒いなんてものではない。私は羽織っていたものの前を閉めた。そのとき、ライターが何故かポケットから出てきた。たまらず私はライターで暖まろうと火をつけた。火の周りは少しだけ寒さが和らいだ。しかし、濃密な夜であるために明かりは火の回りに纏わり付いたごく小さい空間しか照らさない。
「夜は自由かもしれません。」
口調は断定的ではないが、その場にいるかもしれない全員に聞こえる声で誰かが言った。息苦しさが軽減された。いや、息は苦しいままだ。ただ体は軽い。それに加えて、暗闇特有の不安はなくなった。そればかりか視覚に頼ろうとしていた事を恥じるくらいに解放的である。
「夜は他者の事を気にしなくても良いので、新たな挑戦がしやすくなります。」
その声は丁寧に続けた。私の手には煙草が握られている。買った覚えは毛頭ない。その上吸おうと思ったことすらない。タバコを吸うなんて全く意味のない行為であると知っているからだ。とはいえこの握ったタバコは吸う必要がある。先ほど寒さに抵抗するために使ったライターを取り出す。フィルムを剥がし、封を切り、もう片方を叩いてタバコを咥えた。そのまま流れるような動作で火をつけ、深く吸い込む。不味くも旨くもない。タバコの味がする。
「夜は怪しいものたちが活動するだろう。」
陰謀論のように言った者がいた。すると私、もしくは私たちの周りに気配が増え、音が増えた。布が擦れる音や水が滴るような音、板間を走るような音など様々である。
「その昔、夜は私たちの活動時間ではなかったのだ。まさしく魔の時間であった。」
意見をそう補強した時にさらに気配が増える。囁き声が聞こえる。少しずつ色々な物に触れられている。獣のように毛で覆われたものや、氷のように冷たい手に触れられる。怖さはない。夜には魍魎が跋扈するのは必然だからだ。
「夜の密度は我々の生活に依存する。」
途端に夜の密度にムラができる。濃く暗い場所と薄く暗い場所が出来てきている。どちらも視覚的には変わることこそないものの、感覚的には明確に変化している。
「我々の生活が多く営まれている場所では低く、逆の場合はより濃密な本来の夜が現れる。」
声の主がそう続けると、私の周りは一層闇に包まれる。私は過去を思い出していた。過去の私が生活していた場所には本来の夜は存在していなかった。十全に暗い夜だと認識していたのだが、そうではなかった。現在の私が置かれている夜の方が明らかに濃い。それでも、夜本来の暗さとは到底かけ離れているだろう。今の充分すぎるほどに暗い空間も本来の夜ではない。本来の夜は私、もしくは私たち、さらに言えば全ての存在に等しく刻まれた夜のイメージには到底足りていない。存在が存在として有る以上そこは本質的には夜ではないと、確信しているからだ。
あくまで個人的な意見にはなるがと前置きをして、私は語る。この前置きは周りには聞こえていないかも知れない。いや、夜において私の声はどこにも届いていない可能性がある。しばし逡巡し、ほかに語ろうとする何かご現れないことを時間を無駄に消費することで確認し、私は続けて
「夜は虚構に溢れている。」
と言った。反応はない。もちろんそうだ。今まで語ってきた誰かわからないものたちにも反応はなかったから。反論はあったが、それも全てを語り終わってからだったからだ。私はこんな邂逅をする前にやる事がある。理由を考えなければ。どう説明すれば理路整然かを考える。これまでの語りが明瞭でわかりやすかったかと言えばそうではないが、それでもくだらない性分から考える。
夜は虚構に近い。夜に眠ることがほとんどの存在で認められている。夜は活動をせずに、生の本来的な活動である睡眠を行う。その中でいくつかの知性を持つ存在は夢という、現実の拘束から切り離された、治外法権の場所である夢へと漕ぎ出すのだ。この点、あくまで昼との写像としての夜には虚構に近接していると一定の説得力があるだろう。しかし、私は夜は虚構であると言い切っている。
夜は明ける。しかしこれだけでは夜が虚構であることの証明にはならないだろう。現に今の時点で、夜は明けなくとも夜であるし、単体で存在できうるからだ。それに、例えそうではなかったとしても個々の存在が太陽が登った状態を夜と認識した時点で、言い換えれば朝や昼を夜の正統後継者だと認めなければ、その存在にとって夜は間違いなく明けない。夜は虚構である、ではなく虚構で溢れている大見得を切っている以上何か理由づけが必要なのだという気持ちに駆られている。
夜には全ての存在が仮面を付ける。虚構をこう言い換えてみた。確かに多くの存在は夜には昼と比較して、振る舞いが変わるだろう。暗闇が容姿や社会的階級を塗り潰し、挑戦的な正確になることは全くの事実だ。それは夜が舞台装置としての虚構を成す明確な理由であると確信した。しかし、私が訴えたいのは状態としての虚構ではなく、夜の存在それ自体が虚構であることなのだ。夜とは嘘の時間である。これを論理的に説明できるのだろうか。夜は粋の世界だとも言えるかもしれない。カッコつけや虚勢が肯定される空間。いや、だからそうではないだろう。空間の話をしているのではないのだ。
夜は暗いだろう。神が光あれといい、光を昼と名づけ、闇を夜と名づけたなら夜は写像として存在している。しかし前述の通り夜の写像性は明確に否定され単体の明らかな存在として夜が顕現している。さらに言えばこの夜の暗さの主張は私の口から半ば半強制的に飛び出した、口を滑らせた、と言ってもいいだろう。なんにせよ、この理由は私の主張を補強するだけの力はない。
この永遠とも思える理由探しはまだ続いている。それでも口から出た夜の虚構性を増補することはできない。何か理由を言わなければ、私はずっとそう思いながらもはっきりとした口調で、
「理由はない。」
と言った。続けて
「夜は虚構に溢れてはいるが、私にはその主張の正当性を訴えることはできない。」
と言った。最初に私が口を開いてから、ほとんど無限のような時間を過ごし、その果てに理由はないと断言した。しかし、そう思っているのは私だけで、実際にはここまでに寸分の時間もなく、間髪を入れることなく言ったかもしれない。
当然周りからの反応はない。そもそも周りに私以外の存在がいるかどうかも不明なのだ。ただ夜に包囲され、夜の話をするという行為をしていたにすぎない。あるものは詩的に、あるものは自信を持ち、またあるものは丁寧に語った、各存在自体の夜感といえるものの吐露でしかない。なんの生産性もなく、全く無駄と断じてよいような、議論でもないことの繰り返しをしていたにすぎない。それでも夜はその発言によって姿形を変えてきた。
私の主張の後、夜は私の世界の夜に戻った。私は自室のベッドにいた。夜の議論なんてなく、ただ夢を見ていただなのかもしれない。時計を見ると午前二時を指している。今は夏でいくら日の上りが早いとは言え暗黒の夜が外には広がっている。すっかりと夜に馴染んだ私はふと散歩に行くことにした。勿論、寝巻きのままで。アパートのドアを開け、サンダルで夜の世界に踏み出したとき、私の視界には、いや私の全ての感覚器官が偽物の夜を訴えている。
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