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“想像された全体”と“解釈可能性”

 Y野家の役員解任の件で勉強になるのは、当人や件の企業の中を知らない人たちが、その発言だけで、その人の全人格を理解したような発言をしたり、過去のマーケティングの実績の考え方を邪知したり、あるいはマーケティング業界や従事者全体を非難したり、また所属していた企業の体質にまで話を拡張するのを見かけることである。

 それが全体を表していないにも関わらず、部分だけを見て想像力で“足りない部分”を補完し、“想像された全体”を作りあげ、それを真実のように扱ってしまう。これは人間のアタマが、足りないと思う情報を足したくなることや、自分がわかりやすい認識にショートカットしてしまうことにある(興味ある方は、関連性理論などを調べてみてください)。

 その“全体”が、“想像”した人にとっての真実として思考に覆いかぶさるので、他の可能性を考えることを妨げてしまい、自身が自身でバイアスを呼び込んでいることに気づきにくい。

 このことは、今回の件のみならず、マーケティングや広報活動において可能性のある一つの大きなリスクとして、常に検討しておかねばならない。

 私が以前から挙げている、あるメッセージetcが受け手のコンテクストによって自由に解釈されるという“解釈可能性”というものは、“受け手”とは“読み手”である、ということをも指しており、そしてその“読み手”は生成された“想像された全体”の“送り手”ともなり、ナラティブを拡げる役割を担う。

 こうした認識が、今、マーケティングや広報を行う上で、必要なものだと思うのだ。

参考論文:


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