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”価値共創”を適切に理解するために〜基本的な理解とそれを助ける本たち(文章執筆途中)  

※文章途中ですが公開します。 

 "価値共創“というのは一種のバズワードになっている。

 しかしそれらについて語られた本や記事の多くが、本来の意味とは違うものとなってしまっている。特に、「顧客をパートナーとして価値共創する存在とするのだ」というふうに買いてあるビジネス書は、”価値共創”をほぼ誤って捉えていると考えていい。

"共通価値”との”価値共創”の混同

 また”共創価値”と言う言葉も見かけるが、"共創価値”という言葉は適切ではない。おそらくは”共通価値 Shared Value”との混同がされているのだろう。
 "Shared Value"というのはマイケル・ポーターによる、"CSV: Creating Shared Value"の語である。CSVは「企業が事業を営む地域社会や経済環境を改善しながら、自らの競争力を高める方針とその実行」であり、競争戦略の一環である。

 企業の社会的価値と経済的価値を統合することがその主旨のCSVは、「パーパス」など企業の社会的存在意義が再定義される時代において、また注目をされつつあるように思う(そういった点で、”共通価値の創造”と”価値共創”が混同される場面が増える可能性は高い)。

 ”共通価値の創造”については中小企業庁のサイトにわかりやすい説明があるので、そちらを読まれるか上記した文献に当たられるのが良いと思う。

”共創 co-creation”と”協働 co-production”の混同

 そして、shared value との混同以上に多いのが、”共創 co-creation"と協働 co-production"の混同である。

 たとえば、

「お客さんの声を聞いて作りました!」
「コミュニティからうまれたアイデアで作りました!」

といった売り文句はあちこちで見ることができるし、一部の実務家向けビジネス書では、これらを”価値共創”の事例として紹介している。

 しかしながらこれらは正確には”価値共創”ではない。製品を生み出すプロセスにおいて顧客をパートナーにしているものであって、これは"協働 co-production" である。

 聞こえがいいので、”価値を共に創出している”と言われがちなのだが、実際のところは”価値”を生み出しているのではなく、生み出しているのは”製品”だ。

 もしかするとここで

 「製品って価値そのものじゃないの???」

と思われたかもしれないが、そういう疑問を持たれたとすると、非常に良いと思う。その疑問が思い浮かぶなら、きっと”価値共創”を理解しやすい。

プラハラードとラマスワミによる「価値共創 co-creation of value」


 "価値共創 co-creation of value"について話す上で、プラハラードとラマスワミによる著書は決して外すわけには行かない。

 プラハラードらの主張として最も重要な部分は、「企業が中心となって価値を創造する」という従来の支配的な考え方への挑戦だろう。

 企業は製品を生み出し、それを顧客に提供する。

 製品には価値が埋め込まれているであって、顧客はそれを消費する存在である。

 こうした考え方が支配的であったが、顧客自身(プラハラードらの本では”消費者”)の変化に伴って、企業は一方的に製品を生み出してそれに価値を埋め込むような存在でもなくなり、顧客はそれらを一方的に受け取って消費するだけの存在でもなくなっている。

 ここでいう”変化”はプラハラードらによれば以下にまとめられる。

  • 情報の入手

  • グローバリゼーション

  • ネットワーキング

  • 製品の試用

  • 積極性

 インターネットの進展により、顧客は様々な情報を世界中から入手できるようになり、情報を共有し合い、また一部製品に関しては購入前に実際的にも仮想的にも試用が可能になり、そして受動的な存在ではなくなってきている。そうした顧客の変化=世の中の変化において、企業は顧客との交流の中で顧客と価値を共創する機会が高まっていると、プラハラードらは主張している。

 企業は生産、消費者は消費というように、役割が明確に分かれていた。価値は製品やサービスに宿り、市場を通して生産者と消費者との間で交換される。価値は市場に届く前に創造されていたのだ。

C・K・プラハラード et al.『コ・イノベーション経営価値共創の未来に向けて』

 上記の引用で重要なポイントは、

  1. 企業と消費者の役割が曖昧になってきている。消費者は価値創造に関わる生産者と考えられる。

  2. 価値は市場に届く前に創造されている。つまり、「製品」として市場に並ぶ前に「価値」は創造されている。

といった部分だろう。

 消費者・顧客といった存在が、単なる”消費”者ではなく、”生産”者であると考えられたのは、プラハラードらが最初ではない。

 例えば、アルビン・トフラーは「プロデューサー(生産者)」と「コンシューマ(消費者)」の造語として、「プロシューマー(生産消費者)」という言葉を1980年に発表していた。

 また、歴史社会学の文脈では、ルフェーブルやド・セルトーらが、"使用 usage"という概念を用いて、「消費者は単に”消尽”する存在ではない」と主張を1960年代〜1980年代にすでに行っている。

 しかし、トフラーや、ルフェーブルやド・セルトーの場合は”価値”の創出過程に注目したものではないため、プラハラードらの主張の違いはそこにある。

 そのためプラハラードらの著書には「共創経験」や「共創プロセス」といった概念が提示されており、企業と顧客含む関係者の間で共有されるプロセスを戦略的に取り込んでいくことの重要性が説かれている。

 そこで提案されているフレームワークが「DART」である。「DART」とは、対話(dialogue)、利用(access)、リスク評価(riskassessment)、透明性(transparency)の頭文字をとったものであり、こうしたものを用いながら、消費者の論理と企業の論理の間で”価値”を共創し、製品やサービスを生み出していくことを説くのが、プラハラードらのいう”価値共創”なのである。

 つまり、”製品”は”価値共創”の過程の先の一つのアウトプットなのであって、”製品”を協働的に生み出したことが”価値共創”なのではない。

Service-dominant Logicと"価値共創"

 さて、プラハラードらの”価値共創”をマーケティングの観点でより一歩進めたのが、ラッシュとヴァーゴの Service-dominant Logic である。

 Service-dominant Logic とは、それまでは「モノ(Goods)」中心で考えてきた支配的な考え方を「サービス(Service)」中心の考え方への転換を示したものである。

 しかし、この「モノ(Goods)」と「サービス(Service)」の話も、これまたよく混同される。「モノからコトの時代へ」と言ったように。

 また、「製造業のサービス化」のように「ものづくりからサービス業へ」という文脈でも、Service-dominant Logic は誤った使われ方をすることが多い。「ものづくりからサービス業へ」というのは、「サービス化 servitization」と呼ばれる業態の転換や経営・製品戦略的なものであって、Service-dominant Logic のような”考え方・思考・思想”の話とは位相が違うものである。しかし、Service-dominant Logic が Servitization の話として誤解されることは珍しくない。


※以下、時間出来次第書きます。続き公開まで、以下をお読みください。

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