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アカデミズムの追求の先
Twitterでリツが流れてきた以下のツイートについて。
アカデミズムを受け入れきれない理由は、それを追求するとみんな「先生」になっていくところだ。それが「正」だと疑う試みが弱くなり、正しさで人を抑圧しはじめる。先生的なポジションの人は常に自省してほしい。あらゆる学問は盲信するにはまだ浅すぎるのだと思う。
— 牧野圭太@カラス代表/エードット (@MAKINO1121) September 9, 2020
博士課程でアカデミックな世界からビジネスを模索中で、社会人大学院で先生をやってる身からすると、非常に面白い意見だなと思って読んだ。
この牧野さんが、「アカデミック」であることと、「アカデミズム」を混同しているのか、同義で使っているのかわからないけれども、全体を読むに、その両者を一緒くたにして使ってるのではないか?というように思える。
ちなみに「アカデミズム」というのは、学問史上主義というか、学問に対してのみその正統性や権威性を求めるものである。ちなみに「アカデミズム」を追求すると「先生」になるかどうかは疑問である。むしろ、「先生」と呼ばれて”持ち上げられ”る学問の場があるとすると、きっとそれは「アカデミズム」だと思うが、それは「学問における権威主義を追求すると権威主義になる」というトートロジーになってしまうので、そもそも”「アカデミズム」を追求すると「先生」になってしまう”というロジックそのものがクラインもびっくりなくらい”ツボ”にハマるのである。
”アカデミック”な世界=「知」の世界では、よく言われるように、そこで学ぶ・研究する人は「巨人の肩に乗ることしかできない」存在ゆえに、自分の目の前に現れるテーマについて「正」だと思いこむことはないし、むしろそういう人物は「知」の世界を泳ぐことはできないし、溺れ死にしてしまうだろう。むしろ「知」の世界は「正」だと思われてることを疑う世界なのであって、そこで生きる人々は、何かについて「正」だと思いこんで誰かを抑圧するのでなく、「正」であると思われていることを批判的に疑うことによって自分自身へのプレッシャーを掛け続けているのである。
ただし上記は研究者・「知」の探求者の姿勢。
上記のツイ主は、”先生的なポジションの人は正しさによって人を抑圧するので、そのあたりを自省してほしい”という主旨のことを言いたいのだと思うのだが、一方で、その”正しさ”というのはいかにして判断かのうか?という問題が起きる。もしあるテーマ・領域について、すでに存在する、確立された理論や考えがあるのであれば、それは多くの人によって検証され/研究され、一般化されたものであろう。それゆえに、ある種の「正しさ」をある時点(つまりそれに対してのオルタナティブな新しい「正しさ」が出てこない限りにおいて)において担保されている。そしてその「正しさ」を受け入れ、理解し、その先に批判を行い、新たな「正しさ」を提示することは、其の領域における研究者や従事者において求められる、真摯かつ謙虚な態度だと考える。
簡単に言うと、「何か主張したいことがあったら、その領域についての既に存在する考え方とかを勉強してから言ったほうがいいよね」ということである。
「考え抜く」だけでなく「学びまくる」という姿勢を持つと、先人の知恵も得られるしね。
ちなみにツイ主のいう最後の一言を読んで、凄いなあと思いました。
「あらゆる学問は盲信するにはまだ浅すぎるのだと思う」
このように考えることができるレベルにあるのが羨ましく思いますね。
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