富士山で起きた中継→滑落事故は、登山スキルのあるなしだけで起きた問題ではないと思うのだ。

この富士山の滑落事故の件、「山の知識がないせいだ!」みたいな話が山の関係者の一部から出てるけど、それは筋違いだと思ってて、現在のソーシャルメディアを中心としたネットにおける自己表現や自己顕示欲や承認欲求が、適切な知識や経験を学ぶべしという態度をナシにしてしまうことで起きたと思います。

そもそも山に関するスキルや知識って、本格的に山をやろうと思う人なら意識して学ぼうと思うと思うんですが、そうでない人にとってはそれらのスキルや知識の価値なんて計れないわけだからわかんないわけですよ。そういう人たちに、「知識やスキル」って言ってもわかんない。

とある山のインストラクターが、今回の件について“教訓としてのいいエピソードになる”と、“w”(かっこ笑)で締めくくって書いてるのを見てしまったのですが、僕もJOAのナヴィゲーションインストラクターの立場で考えてみても、「山に関する知識やスキル」ってのは必要と意識した人たちにしか価値は感じられない難しさがあるはずなんで、笑えない(そもそも今回の事故について、エピソードとして“w”で締めくくれる案件ではないという話もあるかな。。。)

登山とかアウトドアアクティビティの裾野が拡がると、例えば高尾山や筑波山なんか気軽な山だと思ってみんな軽装で登りますけど、そういった人たちに登山の危険性を伝えたところで響かない。心理学的にも明らかですが、自分の興味関心範囲でないと人は注意を払ってくれないわけで、富士山のケースなんかで言っても、ライブで富士登山を中継するというYouTuber的な(今回はYouTubeではないけど)モチベーションからすると、そのモチベーションの部分にこそ自身の興味関心は埋められてるわけで、山の危険性なんてのは二の次なんですよ、きっと。

じゃあ、そういう人たちのことを「知識とスキルがないから事故を起こした」とか嘲笑の対象として捉えることができるかっていうと、これはむしろ単純に登山の知識やスキル云々だけの話としてだけ捉えるのではなく、承認欲求がもたらした事故という風に考えるべきことな気がするんです。

いわば、知識がある人はそもそもこういう無茶はしない、でも、知識とか関係なく承認欲求のために行動してしまう人は今の世の中にはいる、という風にある種の社会的な問題ではないか?と思うんですよね。

なので、事故が起きたあとに「あーすればこーすれば」って話は登山家やインストラクターの間では出てくるとは思うんですけど、実は登山のスキルや知識とは違うところで起きた問題なんじゃないかな?って考えます。

なので実は、チェーンソー振り回したり、いろんな企業に電凸したりするYouTuberたちがいるってのと同じことなんじゃないかなぁ。

山の知識やスキル云々ではなく、ソーシャルメディア通じてフラットに情報を得られたり配信できるようになった結果起きた、そんな事故じゃないか?

悲しいのは、山の知識やスキルがない人がリスクの多い状況の山に登ったという事実ではなく、ソーシャルメディアが拡張した承認欲求の結果、この事故が起きたんじゃないか?と思われることですね。。。

実際この中継動画を見ても、真剣に生主(=なまぬし、生放送してた人)を止めるどころが、風景キレイ〜とか早く頂上へみたいコメントがたくさんあったので、本人にとっては危険性をわかってる部分があったとしても、承認欲求がバイアスかけて行かせてしまったとかいうのもあるかな。。。(と、しばらく前に亡くなった、ソーシャルメディアで発信していた某登山家の件も思いだしてしまいます)。

危険性理解 < 承認欲求
道徳性 < 承認欲求

と、承認欲求が正常性バイアスを助長している世の中なんだと。

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