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自分に嘘をついている気がするのは「途中」だからかもしれない


めちゃくちゃ久しぶりに、お題箱の質問に回答するやつをやろうと思います。今回は相談事ではないのでただわたしが色々書くだけですが、お付き合いいただければと思います。

わたしは話の長いタチで、Twitterのツリーをどんどん伸ばしていってしまうのとやっぱり140字ごとに思考がストップしてしまうがつらくて、時々noteで詳しく回答させてもらえたらなと思います。前書きここまで。

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まずは、わたしの文章を読んでくださって感想まで、本当にありがとうございます、とってもうれしいです🕊

さて、自分で文章を書いていて「自分に嘘をついている」感覚になること、どうでしょうかねえ。とっさに浮かんだのは「あんまりないな」ということで、どこかの記事のあとがきにも書いたんですが、「いくら大仰に聞こえようとも絶対に嘘はつかない」というところで記事を書いているので、公開している記事の中では、創作を除いて自分に嘘をついているものはありません。ひとつも、です(そうも言ってられなくなるんだろうなあ、でもわたしの気質として「ほんとうのことを書いている」という確信みたいなものがなければ恥ずかしくて実名では記事書けないような気もします)。

でも、「まだだな」と思うことは、よくある。しっくりこないというか、そこだけ浮いているというか。なんなんだろうあの感覚は。全然たどり着いていない感じ、円の外側にいる感じ、他人の言葉を借りてきた感じ、ああ、確かに、「嘘」なのかもしれませんね。

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これはすべての人に当てはまることなのかわからないのですが、わたしは文章には2種類あると思っています。1つは、もうすでにわかっていることをちゃんと整理する文章、もう1つは、書きながら「わかっていく」文章。

例えばレビューや最近のコラムなんかは、わたしが高校生くらいの頃から長いこと考え続けてきたことをちゃんと言葉にし直していることも多いです。それでもこの年齢だからこそ、このタイミングだからこそ言葉にできる部分も多く、わかりながら書いていると言うこともできます。

そして、「まだだな」と思う文章は、後者なんじゃないかなと思っているのです。

チリっとした断片だけを集めておいて、それが何なのかわかるために書く。まだ「わかる」途中のところにいて、近くにある言葉を着せては脱がして、組み立てては崩して、頭を抱える。一旦ほったらかしておいて、でもまた出会って、今度はちょうどいい言葉を持っていたりして、そうやってだんだん核心に近づいていって「そうか、これだったのか」となる。

結局わからないことだってたくさんありますし、そういう時には「まだわからない」って書きます。書くことは一旦対象と距離を置いてちゃんと見つめることだから、自分のことを書くのはやっぱりとても難しいです。

ということで、ご質問に対する回答は「あるかもしれない、多分ある、でもそれは「わかる」途中だからだと思っている」という感じでしょうか。曖昧ですみません。でも、これがきっといちばん近いのです。

自分のことを書くのは難しいと書きましたが、わたしは自分オタクなので、書くことを通して「わかる」のは、同時にめちゃくちゃ面白いことだし、「これを書けてよかったな」という記事が書けたときには自分で自分をぎゅうぎゅうに抱きしめたくなるくらいうれしいです。こんな厄介な人間に書く場所や言葉に追いつく時間を与えてくれている人たちには、感謝してもしきれません。

あと、これは出過ぎたことかもしれないのですが、嘘を「嘘だ」とわかることはすごく誠実ですごいことで、同時に苦しいことなんじゃないかと思います。「これは嘘だ」とわかることだって、1つの選択肢をちゃんと消したという意味では大きな前進ですし、質問をくださった方にとっては「わかる」ための手段が文章じゃないのかもしれない。絵やダンスや、たまたま観るアニメなのかもしれません(『ハイキュー!』はわたしにとってアハ体験の宝庫でした)。

最近よく思うのは「わからないことを「わからない」と書く(言う)」ことは、とても誠実な営みだということです。ちゃんとくよくよしながら「ここまではわかる/言える、ここからはわからない/言えない」という線引きをやることは、自分が思っているよりも未来の自分を助けるのかもしれないなと感じています。

あなたがどうか急ぎすぎずに、自分を疑いすぎずに、暖かくして過ごしていらっしゃいますように。ビッグラブ

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