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三日月の目の彼の死のこと

 テレビで、新聞で、iPhoneの画面の中で、彼の顔を見るたびにぐらっと視界が揺れる。「死」という文字が脳みそを駆け回って、どこにも納まれずに戻ってくる感じ。一拍おくれて、彼のすらっと長い首に紐がかかっている様が目に浮かぶ。
 それでもまだ思ってしまう。「本当に?」

 彼の三日月型の目、くしゃっとした目尻のシワ、綺麗に並んだ白い歯。美しくあらねばならない彼が美しく映った正しい写真が、その正しさによって、わたしを混乱させる。

 笑顔が素敵だったのに、素晴らしい演技力だったのに、あの作品も、この作品も大好きだったのに。
 宙に浮いた「だったのに」が画面の中を滑る。一体その後に何と続けるつもりなのだろう? わたしたちのためにこれからも頑張ってほしかったって? それって本気で言ってるの? どの面さげて?

「爽やかで好青年で、自殺なんかする子じゃなかった」と証言する人の「自殺なんかする子」の響き。
 その不気味さと定義の曖昧さを、誰か本気で考えたことはあるのだろうか。

 よく知っている人の死は、自分が見る世界に楔を打つ。彼の死以前と彼の死以降で、何かが決定的に変わってしまったような心地になってしまう。ほんとうは、この瞬間にも何もかもがどうしようもなく変わっていっていると、分かっているはずなのに。
 そもそも、自分が「よく知っている」と思っている人を、ほんとうによく知っていたことがあっただろうか?

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 自分が何を言いたいのか、わからないままで書いている。何を言っても空虚な気がするし、何かを言おうとすること自体、きっと正しくない。みんな必死になって彼の過去を掘り返したり後悔を語ったりするけれど、それは自分のための言い訳を探しているに過ぎない。
 もちろん現実問題として、いたるところに何らかの余地はあるのだろうが、そういうものにちゃんと意味があるのだと信じる元気が、今のわたしにはない。
 たぶんわたしは傷ついていて、これは誰のせいとかいう話ではない。誰かの・何かのせいにできないのはとても苦しい。その慰めとして、とりあえず文章を書いている。

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 2年ぐらい前、ふらっと「別にもういいかな」と思ったことがある。普段は「5万年生きたい」などと本気で思っているので自分でも意外なのだけど、でも、ある。
 体も心も疲れ果てて、この電車に飛び込んだら、そしたら、そうしたら、えっと、アレ、どうなるんだ??
  わたしがまだ生きているのは、その続きが出てこなかったからだと思う。

 死にたいと願ったこともなければ、死んでやると決意したこともない。この世界は生きるのに値しないと思ったことも、自分を無価値に感じたこともない。それなのに、ただ単純に、しかし致命的に、「もういいかな」と思ってしまった。
 その日の天気、冷蔵庫の中身、気圧、湿度、お腹の減り具合、そのとき聴いている音楽。そういうものが何かの弾みでぴったり合わさってしまったとき、こんなにも容易く存在は揺らぐ。

 もしかしたら。
 この世界には最初から仕組みとして度々こういうことが起こるようにできていて、それが昨日また起こっただけなのかもしれない。
 もしそうならば、三日月の目の彼の死も、それにまつわる様々に傷つくわたしも、この世界の現象のひとつに過ぎない。現象を眺めすぎると精神を悪くする。
 きっと、わたしも何か言い訳を探したほうがいい。


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