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九州北部豪雨体験談

豪雨災害で亡くなられた皆様のご冥福をお祈りします。

平成29年7月5日、私は佐賀市内で講演会の講師として呼ばれており、宇佐から院内を抜け、玖珠から高速に乗り、佐賀大和で高速を降りて佐賀市内へ。佐賀での講演は年に2・3回あり、経路はいつもの道となっていた。

無事講演も終わり、帰路についたとき佐賀市は晴れていた。いつも帰りには山田のサービスエリアで一息ついて帰るのが習わしだった。車内でうとうとしているうちに、いつのまにやら強い雨となっていた。すると、NEXCOの職員がサイドガラスを叩き、「日田インター向こうに行くのなら早めに出てください( ゚Д゚)通行できなくなる模様です」とのこと。雨は叩きつけるような大粒になっていた。

指示に従い、速やかに高速本線へ。前の車のテールランプがかすかに見えるくらいでアクセルを踏むのが怖い。猛烈な雨に恐怖を感じ、たまらず「高速を降りて一般道で帰ろう」と考えた時点から、私の避難体験が始まる。私の降りた杷木インターは九州北部豪雨の中心部だったのである。

ちなみに、私が降りた杷木インターはその後、土砂にのまれてしまった。私が帰る212号線は通行止めとなっていた(どのみち帰れなかったかもしれない)

杷木インターを降りて、すぐ左に消防署が見えた。消防署で情報を聞いてみようと、ずぶ濡れになりながら隊員さんに「日田に行く道は大丈夫でしょうか?」と聞くと、「車の流されている状況なので、早く安全なところに避難してください!」という返事が返ってきた。ようやく私の鈍い頭も、「大変なことになってる」と気が付いた。

「安全なところってどこだ!」今度は西に車を走らす。ちょっと行った交差点が水に沈んでいる。「どうするよー」っと引き返した時に、少し高台となった朝倉光陽高校を見つけた。

「少し雨宿りさせてくださいませんか?」この時、ここに2泊することになるとは毛頭も思わなかった。

当学校は避難場所しての指定がされてなかったようで、対応された先生は、「もう高速は通れないようです。ホテルを紹介しましょう」とホテルを予約してくれた。「ありがとうごさいます」と学校を後にしようとした時、道は流木が流れ出し、事実上の缶詰となってしまった。

その後、20名程度だっただろうか、三々五々と避難者が集まってきた。

当学校は非難指定されてなかったので、先生たちは相当に困惑していた。コーディネーターが存在しなかった。私たち避難者は一室に集められたが、「どうしていいかわからない」状況だった。想定外のことが起きていた

私はずぶ濡れだったが、着替えなど持ち合わせていなかったので、自然乾燥で熱を奪われていた(寒い~タイルもないし(>_<)。テレビもラジオもスマホもないし、状況が全くつかめない。今日はここに泊まるしかないことだけは確かだった。

夜になって、どこから配給されたのか分からないのだが、避難者に🍙が1個いただけた「ありがとうございます」。

外は豪雨と雷、なかなか眠れない。この時、多くの家が流され、多くの命が奪われていたのである。

2日目(7月6日)、朝早く外の状況を確認に行くと、川には流木や車両が詰まり、路上は土砂と流木で車が乗り捨てられていた。自衛隊職員に尋ねるも「今来たばかりなので、まだ何とも言えません」と情報はなかった。パトカーと救急車の音が引っ切り無しに聞こえる。

朝、昼に🍙1個。こんな状況下、不思議と腹は減らないものである。

夕方になって車が進みだす。杷木インターは依然通れない。386号線は崩れ落ちている。210号線は何とか使えるとのことだったが、土地勘のない私は、こんな状況で知らない夜道を通るには恐ろしいので、ここにもう1泊することを選択。

その夜、弁当と毛布をいただいた「ありがとうござうます」

3日目(7月7日)、今日、高速が使えなければ福岡市回りで帰ろうか~とも思っていたが、AM8時頃、杷木インター復活。そのまま高速で宇佐まで帰宅。自宅復帰後、入浴とカップ麺。

後日、朝倉光陽高校には菓子折りを持って感謝を報告した。

今年も、どこかで豪雨災害が訪れるかもしれない。
ここに私の経験をもとに教訓を残したい。

どこで(自宅、職場、出張先、レジャー)災害に遭遇するかわからない。想定外のことは起きる。

■迅速な判断と命を守る行動が大切(恐怖に素直なること)

■想定されてなくても、2階建て以上のしっかりした建物は、避難場所になる

■車は容易に走れなくなる

■スマホと充電器は必需品

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