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⑩ひろみん社長が初めての中国でひとりになった話

大学を卒業して、薬剤師の免許をとって、留学の準備をはじめました。

3月に卒業して、薬剤師国家試験を4月に受けて、それが終わったら9月の留学までプー太郎。

プー太郎が長すぎるので留学前の夏のサマースクールから参加することに。

私の姉は高校卒業後に中国留学に行き、天安門事件で志半ばで日本に帰ってきた経緯がありました。はじめての中国なので、行く時は姉がついて行ってくれることになって余裕綽々でした。

ちょうどその頃、中国の知り合いが、日本で大学院を卒業して、中国で起業したいという話が持ち上がっていました。私が留学したその年に父が出資して北京メカが立ち上がったのです。

姉と一緒に北京に降り立ち、学校がはじまる前にまずは北京の工場の方へ顔を出しました。北京郊外の万里の長城の近くにあったその工場はまだボロボロで、日本の昭和初期?みたいな雰囲気で、工場の外には豚が散歩してるみたいな。

その工場は日本向けの縫製製品を作るために準備をしており、ミシンとかを組み立てたりしていて、それから四川から女子工員を探してくるということでした。

北京について4日目くらいだったでしょうか?姉がその仕事で四川に行くことになって北京に私1人置いてきぼりにされることになりました。

もうびっくり仰天!中國語も満足に話せないのに北京で學校がはじまるまでの數日を1人で過ごさなくちゃいけないなんて!不安な私を殘して姉は旅立ちました。。

姉が四川にたって半日くらい泣きました。ひ弱だったんですよ。。。言葉の通じない海外で1人になるって本当に不安でした。しかも先進国でない中国で。

しばらく泣き続けたら、なんかちょっと肚が座ってくるものですね。1人でやることもないし、泊まっていた大学の宿舎を出て、予定より早く留学する大学に行くことにしました。

姉がいた時は中国はあまりにも言葉が通じないと思っていたのですが、1人になるとなんとなくできるようになってくるもので。どう話したかは覚えてないけど留学する大学の寮に入れてもらうことにして大きな荷物を抱えてお引越し。

お引越ししたのはいいものの、学校ははじまってないし誰も知り合いも1人もいないし、やることもない。

とりあえず外に出てみるとちょうど暇な人がいたようです。武漢大学から遊びに来ているモロッコの留学生に声をかけられ、一緒に近くの大学に遊びに行くことにしました。

バスで向かったのですが、その彼の中国語のイイカゲンなこと。(失礼!笑笑)

私はそれまで中国語は発音が難しい!通じるのが難しいと難しい難しいと思っていたんですが、イイカゲンなのにちゃんと通じるんですね。中国語を口に出すのが怖くなくなりました。これは大きな一歩でした。

1日モロッコの彼(顔も名前も忘れた!)と行動してみて、文化の違いとか、自分の身を守ろうとか、中国語か英語しか通じないし、日本語話す人もいないしもうクタクタでした。彼の方もそれはそれはクタクタでしたね。「君と話しをするのは本当に大変だ」と言っていました。笑笑

でも外国の方ってレディーファーストとか、女性を守ろうとする行動が染みついているというか。それを言葉にも態度にも出すんですよね。疲れているならおんぶしようかみたいなことを言うんですよ。おんぶされる勇気はないんですが気持ちは嬉しいですね。

名前も顔も覚えていない彼のおかげで、中国語を口に出すことができるようになり、言葉もうまく通じない人とも心は通じるんだということを気づかせてもらいました。

後日その彼が北京をたつとき、お別れを言いに来てくれて、「僕は君のことが好きだった」的なことを言ったんですよね。ドラマみたい。笑笑(顔も覚えてないけどイケメンだったような気がする。イケメンだったことにしておこう。濃い顔だったのは間違いない)

人は言葉じゃない。心だ。でも言葉はあった方が便利で疲れない。

1日1日成長する中国留学のスタートでした。

つづく

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