見出し画像

「手抜きでごめんね」という呪い

「今日の晩ごはんは手抜きです、ごめんなさい。」
母はよくそう言いながら、スーパーのお惣菜をお皿に盛って食卓に出していた。

お皿に盛られたスーパーのコロッケ以外には、ツナの入ったオムレツ、わかめと豆腐の味噌汁、炊き立てのご飯、ばあちゃんが漬けたたくあん。

主菜、副菜、汁物、ほかほかのごはん。
申し分ない晩御飯である。

先日、夫に言われた一言がきっかけで、わたしが大泣きする事件が起こった。

「今のままだと、将来子供が産まれた時に子供がかわいそうかなって思う」と言われてしまったのである。

我が家は共働きということもあり、夕食のメニューは基本的にごはん、汁物、おかずは一品のみだ。

夫とふたりで暮らし始めた頃、おかずがたくさん出てくる家庭で育ったわたしは、当たり前のようにおかずを複数用意していた。しかし、最初は量の配分がわからずに作りすぎてしまったり、意外と夫が食べられないものが多かったりして、「こんなに食べ切れないし作るのも大変だろうから、おかずは一品だけでいいよ」ということになり、それ以来ずっと一汁一菜だ。

「これでいい」と思いながら過ごしてきたのに、いきなり「このままだと将来生まれてくる子供がかわいそう」と言われた。
冷静になって考えると、とんでもない爆弾発言だし大激怒してもよさそうなものだが、その時わたしは反論が出来なかった。なぜならわたしも同じように思っていたからだ。

自分の子供には、豊かな食事を提供したい。
メインのおかずがあって、サラダがあって、小鉢があって。具沢山の汁物に、たきたてのごはん、ちょっとしたデザート。

今のような一汁一菜では寂しい。わたしが子供の頃のように、たくさんのおかずに囲まれた食卓で育てたい。

その思いは夫と同じはずで、夫の発言には同意するのに、なんとも言えない気持ちになり、心臓を捻り潰されるような気持ちになって、悲しくて、悔しくて、でも反論できない感情が爆発して、思わず大泣きしてしまった。

それぞれの晩ごはん事情

ふたりで暮らし始めた当初、それぞれの実家での食事の様子について話したことがあった。

「わたしの実家は基本的に手作りが多くて、品数もたくさんあった」というわたしと、「俺んちは普通にスーパーのお惣菜もあるし、品数もそんなに多くなかった」という夫。

わたしの実家では、おかずは基本的に手作りで、スーパーのお惣菜や、半調理品を使う事は「手抜き」とされ、あまり良くない事だという認識だった。とはいえ、当時は母も働いていたので、スーパーのお惣菜が食卓にのぼることもあったが、その時わたしは「手作りじゃないのか…」と思っていた記憶がある。

一方、夫の実家は、スーパーのお惣菜や半調理品の登場頻度が高く、夫のお母さんは「手抜き」だという認識だったらしいが、夫自身は、これは手抜きなんだ、と思いつつ、特に不満を抱くわけでもなく、普通に美味しく食べていたらしい。

そんな環境で育った2人が同じ屋根の下で暮らすと、食事をめぐる価値観の違いで、最初はなかなかうまくいかなかった。

一汁一菜システムを導入しはじめた当初も、わたしはどこか申し訳ない気持ちでいたが、毎日仕事が終わった後に手の込んだ晩御飯を作っているわけにもいかず、一汁一菜でも十分だな!と思うようになった。

「今日も手抜きです」という無意味な自己申告

そんな中で言われた、突然の爆弾発言。
もちろん夫に悪気があるわけではない。
わたしが作る食事に不満があると言うわけでもない。毎日おいしいと食べてくれるし、おかわりもする。ありがとうとも言ってくれる。

一汁一菜では、本当に子供はかわいそうなのだろうか?

改めて、「俺んちの晩飯は手抜きだったよ」という晩御飯の内容を夫に聞いてみた。

「スーパーで買ってきた適当なお惣菜が何種類か皿に盛ってあって、サラダどーん!味噌汁どーん!あと適当な漬物とか」とのこと。

え?どのへんが手抜きなの…?

お惣菜が「何種類かある」時点ですごいし、お皿に盛ってあるって、わたしからしたら全然手抜きじゃないんですけど…。
数年前に聞いてた「手抜き」のイメージと違うんですけど………。

夫曰く、夫のお母さんは、そのメニューを「今日も手抜きです」と言って出していたらしいのだ。

「手抜きです」と言って食事を出すと言うことは、無意識に呪いをかけるようなものだと思い知った。

その呪いは、自分自身に対してだけでなく、世代を超える。今回のわたしたちのように。

無意識な言葉が子供を呪う

わたしの母は、晩御飯こそ頑張って手作りをしていたが、働いていたし、料理があまり得意でなかったこともあり、スーパーのお惣菜を買ってくることも少なくはなかった。

そんな日には「今日は手抜きでごめんね」とナチュラルに言っていて、自然とわたしも「スーパーのお惣菜は手抜きなんだ、そして手抜きをすると謝らなければいけないんだ。スーパーのお惣菜を夕食に出す事は良くない事なんだ」と学習し、「手間暇かけた手作りご飯こそ至高」という価値観が形成された。

それは夫も同じで、ナチュラルな「手抜き発言」によって「うちの夕食は手抜きなんだ」と学習し、長年その価値観で生きてきたのだろう。

人は「自分が育った環境」を基準に物事を考える。

わたしたちはお互いに、晩ごはんにおかずが複数でてくる家庭で育ったので、それがある種の基準になっている。

今は2人の生活スタイルや時間の都合で「一汁一菜の食事」で満足しているけれど、自分たちが育った環境を基準に考えると、今の食生活は紛れもなく「貧相」なのである。

そんなことは普段は気にしないのだけど、潜在的にそういう意識でいるから「将来子供ができたら、自分たちが子供の頃より貧相な食事スタイルではかわいそうだ」という思考回路になっている。

その「かわいそう」という思考回路こそ、お互いの家庭でナチュラルに交わされてきた「手抜きでごめんね=手抜きは良くない事」という「呪い」によるものだと最近よく思う。

その呪いは大人になってから姿を現す

幼少期に母が何気なく発していた言葉に、大人になった今じわじわと呪われているような感覚になることがよくある。

それこそ「手抜きでごめんね」からはじまり、「あなたは私と違って器用だから」とか、結婚してからは「旦那さんにちゃんとご飯食べさせてる?」など。

母はわたしから見てもあまり器用な人ではなく、自分でもコンプレックスに感じていたようだ。その分、娘であるわたしに対しては、自分と同じようにはならないで欲しいという思いがあったのか、ことある事に「ちゃんとしなさい」と言っていたのを覚えている。

自分で言うのも変だけれど、比較的「しっかりした子」に育ち、まわりからもそう言われる事が多かった。母も「あんたはしっかりしてるから安心だわ」とよく言ってくれていたが、逆にそれがプレッシャーになって自分を苦しめる事も少なくない。

「ちゃんと」していなくちゃいけない。
「しっかり」していなくちゃいけない。
「手抜き」をしちゃいけない。

そんな「呪い」に、無意識に苦しんでいる人は多いと思う。

「手抜き」を讃えよう

そもそも、手抜きは「いけないこと」なのだろうか。

母が「手抜きでごめんね」と謝っていたのは、手を抜いたという事に対して、どこか後ろめたい気持ちがあって、「本当は手の込んだおいしい手作りの食事を提供したい」という気持ちの表れなのだろう。

しかし、大人になり仕事と家事を両立しなくてはいけなくなった今、ひしひしと感じるのは、いかに時間の節約をして自分の自由時間を確保することが大切かということ。

余裕がないと心が荒むので、少しでもひとりの時間や家族との時間を作って、穏やかな日々を過ごしたい。

そのために必要なのは、効率化の知恵と「手抜きを恐れない気持ち」だ。

仕事でもそうだけど、「これめんどくさいな、手を抜きたいな」と思った瞬間から「効率化」が始まる。

手を抜く方法は無いか、少しでもラクして時間コスト・精神的コストを削減し他のことに注力する術はないかと考える。

手を抜いたことで生まれた余裕を他のことに使えるのだから、むしろ手抜きは良い事なのではないか。

手の込んだ食事を作ることが悪いことだとは言わないし、わたしも余裕があるならば毎日きちんと手作りの豪華な晩ごはんを作って食べたい。
しかし、そんな生活を送ることすらなかなか難しい現代、もっと手を抜けた自分を褒めて、積極的に手を抜ける世の中になって欲しい。

先の世代に「呪い」を残さないためにも、「手抜きは悪いことではない」という考え方が広まって欲しいと、切に願う。

この記事が参加している募集

いいんですか!?