監視員しおりは座らない #04 ヴァージナルを弾く女性と歌い手による楽曲の練習
第3位『この椅子座っていいですか?』
監視員用の椅子は基本的にダメです。
お客様用は勿論大丈夫ですよ。
続いて第2位『この絵、触ったら怒られますか?』
はい、怒られます。とっても(にっこり)
そして第1位『この絵っていくらなんですか?』
申し訳ございませんがお答えできません。としか、答えられないのです。
そんなベスト3に匹敵するほど今、私が困っているのは颯太君とのことだ。美術館で再会した時、『また連絡する』と言われたがまだ連絡は来ていない。こういう場合は私から連絡するべき? それとも待つべき? んぅぅ……わからない、わからなすぎる! はぁ、もうそんなことより仕事に集中しよう。
今日はルーブル美術館展の4週目。持ち場にはいつものように椅子が置いて ある。けれど 私は座らない。
監視員として、お客様がいる限り。
今日もまた、私の座らない一日が始まる。
今日私が担当しているエリアにあるのは【ヴァージナルを弾く女性と歌い手による楽曲の練習】または【音楽のレッスン】だ。作者は17世紀オランダの画家ハブリエル・メツー。洗練された身なりの女性がバージナルという鍵盤楽器を弾き、その背後に立つ歌い手の男性と楽譜について話し合っている場面だ。この二人はいったいどんな関係なのだろう?愛を知らない私はよくわかっていない。
ー国立新美術館・展示場ー
(絵の前で立ち止まる男女)
男:この絵、気になって仕方ないな。
女:作品名は【ヴァージナルを弾く女性と歌い手による楽曲の練習】だって。
男:ヴァージナルって、なんだ?
女:さぁ知らないわよ。
史:(心の声)あ、お客様が近づいてきた。
男:ヴァージナルって何ですかね?
史:はい。ヴァージナルというのは、ピアノの原型になったと言われる小型のチェンバロです。この絵が描かれた当時はピアノがなかったそうなので。
男:なるほどなるほど。じゃあこの絵の
女:ちょっと聞き過ぎだから!
男:だって気になるから……
女:あなたはいつもそうやって物事を曖昧にしないわよね。
男:曖昧にしたままじゃ夜眠れなくなる。
女:ホントよく朝まで調べ物してるもんね、私には考えられない。
男:君が適当すぎるんだよ。監視員さん、この絵の2人はどういう……感じなんですか?
史:どういう感じですか? よろしければもう少し詳しく
男:いやいやだから、ヴァージナルという楽器を弾く女性とその後ろにいる歌い手の男性。これは先生と教え子なの? 気になって仕方ないんだよ、どうなの? 教えてよ。
史:(心の声)おっとぉ、実は私もこの2人の関係についてはよくわかっていない。てっきり私もただの先生と教え子だと思っていた。
女:恋人同士なんじゃない?
史:(心の声)あー恋人同士、なるほどなるほど。
男:なぜそう思うんだい?
女:この男性、女性の背中に手を回してる。そして女性も嫌がってる様子じゃない、恋人同士っぽいでしょ?
男:ぽいってそれは曖昧すぎるだろう。確かに男性は女性の背中に手を回しているけど、ただのセクハラの可能性だってあるじゃん。もっと確信が持てる話をしようよ。
女:私は、同じ楽譜を見つめる2人の調和した姿を見て、こう……ぼんやりと愛の絆みたいなものが見えてきたのよ。だからそういうことでいいんじゃない?
男:ぼんやりと? みたいな? 何も良くないでしょ。もっとはっきりさせないと。
女:あぁもう! すみませんね、この人本当に曖昧にできない人だから
史:あぁいや、でも素敵です。こうやってご夫婦で美術館にいらっしゃるなんて。
史:(心の声)私もいつか結婚したら、こうやって夫婦で美術館に来たりするのかなぁ
女:夫婦ね……
男:まだ夫婦だろ?
史:(心の声)え……どういうこと?
女:私たち、このあと離婚届を出しに行くの。
史:ぁえ? り、離婚!?
史:(心の声)こんなに仲良さそうなのに離婚? ていうか、これから離婚届を出すのになんで美術館に?
女:家にチケットがあったので最後に思い出を作ろうってなってね。
男:僕は反対したんだけどね。美術館は離婚届を出す直前に行くところじゃないって。
女:じゃあどこなら良かったのよ?
男:どこだろう? ちょっと考えてみる。
女:あぁもう来ておいて今更考えなくていいから。結局思い出を作るんじゃなくて、ズレが浮き彫りになっただけだったわね。
男:おいおい、誘ってきた君がそれ言う? それに、僕達も昔は絵の中の2人みたいに同じ方向を見つめてただろう。
史:(心の声)そうです。そういう時代もあったはずです! きっと今なら後戻りできます。
女:そんなことないから。あなたは最初から曖昧を許さなかったし、私は曖昧を愛した。同じ方向なんて全く見つめてなかったわよ。
男:そこはハッキリしてんのかよ……わかったわかった。もう離婚だ離婚!早く離婚届けを出そう。監視員さん今すぐ離婚届の証人になってください。
史:はい?
男:すぐ出したいんでお願いします。
史:(心の声)いやいやいや! 離婚の証人になんてなれません。こちらは愛のことも知らないただの監視員ですよ? 絶対無理。
史:すみません。さすがに証人は
男:だめ? なんで? いいじゃない。ここに名前書いてくれたら……ね、いいでしょ? じゃあ……もういっそのこと離婚届け出すのやめとくか! な? 決めた今日はやめ!
史:はぇ?
女:もう監視員さん困らせないでよ。何度もご迷惑かけてすみません。
史:いえいえ……
女:あなた。離婚届を出すのはやめません。証人なんて何とかなるでしょ。
男:なんとかって何? ちょっと適当じゃない?
女:はいはい。
(二人のマシンガンの様な会話に戸惑いっぱなしの史緒里)
女:監視員さん
史:あ、はい。
女:やっぱり今日はいい思い出になりました。
史:思い出……ですか。
女:離婚届を出しに行く直前に美術館に寄って、そこで監視員の方と離婚の話をする。これは話の種になります。
男:ちょっと……ネタにする気かよ。
女:お騒がせしました。また来るかもしれません。
史:また? あ……はい。
女:いつか、また結婚するかもしれないしね。
男:いやいや魔性の女すぎるだろ。
女:も・し・く・は、別の人とかも。
男:あ! コッチだって別の美女と来てやるわ!
女:もういいから。ほら、行くわよ。
(強引に男性の腕を引いて立ち去る女性)
史:(心の声)嵐のように去っていった。あんなに仲が良い二人でも別れることがあるんだ。気が合いそうなのに別れる決断をする。愛って難しいな……私が愛を知るなんて、やっぱりまだまだ先の話だ。
【ピッ……史緒里さん。そろそろ休憩に入ってください】
史:ありがとうございます。
(イヤホンマイクに返事をする史緒里)
ー国立新美術館・スタッフ休憩室ー
史:ふぅ……
(自動販売機で買ったコーヒーを飲んでいると、手元の携帯電話か鳴る)
史:(心の声)颯太君からだ。
【よかったらなんだけど今度一緒にルーブル美術館展に行かない? 監視員してる史緒里ちゃんの解説を聞きながら回ってみたくて】
史:(心の声)なるほどなるほど、私と一緒に美術館に行きたいのか。
史:……えぇぇぇぇぇ!
(館内に史緒里の悲鳴が響き渡る)
史:(心の声)高校生の頃、一緒に美術館に行って失敗したのにもう一回美術館に? 嘘でしょ? 夢でしょ? 夢ならさっさと冷めて! 耳をつねっても頬を叩いてもしっかり痛い、夢じゃないのか……
【史緒里ちゃんにちょっと伝えたいこともあって、来週あたり……どう?】
史:伝えたいことって何!? それは曖昧過ぎる!
愛をテーマにした展示を担当しているのに、私はまだまだ愛を知らない。そんな私の元に颯太君からメッセージ。まさか美術館に誘われるなんて……一体どうすればいいの⁉
ーつづくー
【次回予告】
『実は私、俳優をしてるんですけど……』
史:(心の声)どーゆー展開!?
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