生きてるだけでえらいよ

 とある文言を見かけました。

「『生きてるだけでえらい』という言葉を本気で言う人はいない、自分の人生なのだから自分が責任を持って毎日を積み重ねていくといい」(※超絶意訳)

 なるほど。かなり考えさせられるひとことでした。
 特に強く印象に残ったのは、
「生きてるだけでえらい」という言葉は、言ってしまえば究極の甘やかしになってしまうということ。誰もその言葉の責任なんて取ってくれはしないわけです。逆に言えば、言った側としても責任を取る術はない…かもしれない。私はよく「生きてるだけでえらい」という言葉を使う人間なので、軽率に言うのは控えた方がいいのかな…とも思いました。

 しかし、私は(自分としては)本気で「生きてるだけでえらい」を使っている…はず。そう思っています。もちろん、自分なりに理由があって。
 超八方美人で偽善者な私が言うのも説得力に欠けますが、まあ聞いてください。

 というのも、私がこの言葉を使う相手は気持ちが弱ってしまって苦しんでいる相手なのです。そういった人たちは、極端な言い方ですが、「苦しいながらも逃げず(死なず)に精一杯現状を打破しよう(幸せになろう)としている」わけです。楽な道に逃げずに苦しみながらも現状を解決しようとすることは、世間一般で言う「えらい人」に当てはまる…と私は思います。

 そして、そんな人たちにこの言葉をかけることがどんな意味を持つか。それは、「偏った認知の矯正になる」と(あくまでも私個人は)そう思っています。
 偏った認知とは、例えばあなたが

「今日、何もかもが上手くいかなかった。本当に最悪な1日だった」

と思ったとしましょう。
しかし、本当にそうですか?どんな些細なことでも良い、「数学の公式を覚えた」「今朝なんとなく買ったパンが美味しかった」「同期の髪型の違いに気付けた」など、ちょっぴりとしたことはありませんでしたか?
 
 意外と、自分で気付かないだけで上手くいったこと、良かったことというのはあるものです。このように、「悪かった出来事」にフォーカスを当てるがあまり「良かった出来事」に目を向けられなくなってしまうこと。それが、偏った認知です。

「自分は何も成し遂げていない、生きている価値がない」

 本当にそうですか?
 何かひとつ、小さなことで良いんです。
 あなたが成し遂げたことがあるはずなんです。

「あなたは、生きているだけで本当にえらいよ」

 だって、何だかんだで今日も生きて、たくさん考えて苦しんで、そうして幸せになろうと努力しているんだから。

 そのことに自分が気付くことができたら、その成功体験から現状を打破する手がかりが得られるかもしれません。認知が変われば、行動が変わります。
 
 私はこの言葉の責任は取れませんが、少しの間だけあなたの人生に寄り添うことはできます。
 
 もしあなたが今悩んでいたら、どうか自分がえらいということを忘れないでください。自分のえらいところを探すことを止めないでください。だって生きてるんだからね。

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