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片耳豚

運命だ、と思った。
____は此の偶然に感謝した。
ざり、と音を立てて一歩を踏み出す。先刻迄鉛の様に重かった足は、信じ難い程に軽やかであった。

眼前の化生が、怯えた様に細く声を漏らす。

「誰、なの」

声は掠れていた。滝の流れる音が響いている事もあり、もう左耳の聴こえない____は、殆ど其の声を拾えなかった。が、何を言いたいのか表情から読み取るのは容易かった。

「忘れたのですか」

____の声も酷く掠れていた。

ざり。歩を進める。
ざり。ざり。

なんだ。人の道を外れると云うのは此程に簡単なのか。

月明かりの無い宵の口、化生を一匹殺めるには丁度良い。




____は山道を独り歩いていた。黄昏時、日が落ちるのが早くなってきた。

「死にたい」

ぽつりと呟いた。
死にたいと云うより、「生きていたくない」が正しいと思った。生きる事が厭だった。

____は、在っても亡くても誰にも関係の無いモノであった。そうして生きてきた、の人を奪われてからは。両親は死に兄弟姉妹の居ない____にとっては、彼の人だけが心の拠り所であった。生きる意味であった。

彼の人の弱々しい笑顔が脳裏に浮かんだ。色んな人から女々しいと言葉を投げ付けられ、困った様に薄く笑っていた、儚げな笑顔。

他者からは女々しく、「ほがない」と映っていた様であったが、____にとっては他の誰よりも慈しみに溢れる人に映っていた。

足繁く彼の人の元へ通う____と好い仲となるのに、然して時間は掛からなかった様に思う。

彼は民俗学を研究していた。

「民俗学って、妖怪とか」

以前、彼にそう訊ねた事があった。彼は、

「そうだね。だけど、其れはほんの一部なんだ」

と、自身の研究の話をしてくれた。普段は口下手な癖に、此の時は饒舌だったのを覚えている。

其の饒舌のひとつ。此処、永田川に纏わる話。

「かたきらうわって、知っているかい」

彼が、何の脈絡も無く放った質問であった。 

「かた……いいえ、知りません」

聴き慣れない言葉であった。____は正直に答えた。

「其れは何なのですか」

「奄美に伝わる妖怪の名前なんだ。片耳豚と書く――読み慣れない字だが」

片耳豚――と頭の中で其の名を反芻する。矢張り____の知るものではなかった。

「一体、如何様な妖怪なのですか」

「文字通り、片耳が欠けた豚の姿で現れる。兎の様に身軽で、人の股をくぐろうとするんだ」

「あら、存外に可愛らしい妖怪なのですね」

「其れが、股をくぐられた人間は死んでしまうんだ。万が一生き存えても、性器を損傷し一生腑抜けとなってしまう――と云われている」

____はぞっとした。「損傷」と云う言葉が恐ろしかった。其れならば一層の事死んでしまえた方が幾分か良い気がした。

「恐ろしい――然し、奄美であれば安心ですね」

「そう思うかい。然しこいつは奄美以外でも度々見られているらしい――例えば、其処、永田川」

永田川。
側を流れる川だ。幼い頃は其の川で遊んでいた、何よりも馴染みの深い川だ。上流にある井手ヶ宇都の滝は、滝を中心として弧を描くように水溜まりが出来ていた為、____は男の子達に混ざりよく遊んでいた。

「永田川、ですか。今まで其の様な妖怪は見た事ありませんが」

____がそう言うと、彼は声を上げて笑った。

「当たり前だよ。妖怪って云うのは所謂伝承や体験を元に考案された娯楽の様なものだ。説明の付かない不思議な出来事を説明出来る様、生命らしき存在を拵えて名前を付けたのが妖怪って云うんだと、僕は思うよ」

「ふうん」

「中には、憎しみや悲しみと謂う人の残留思念とも言うべきモノが取り憑いた、何て事例も在るけれど」

気を付けた方が良い、片耳豚は女性一人歩きの時によく目撃されるらしいから――と彼は言って此の話を締めた。

憎しみや悲しみ――か。____とは縁遠い物であった。
否、縁遠い物と思っていた。

幾度目か、もう数え切れぬ程。彼の元を訪れた際の出来事である。

玄関に見知らぬ靴があった。
見間違いかと目を擦り、何度見ても変わらず其処には女性用の靴。脳が勝手に組み立てる厭な推理に手が震えた。____は足を忍ばせ居間へ向かおうとした、其の時。

笑い声が聴こえた。

余りにも楽しそうで、____は誰の声なのか暫し分からなかった。

息を多く含んだ、優しくも少し掠れた独特な声。彼の人の声に違いなかった。そうか、彼の人は本当は此の様な声で笑うのか――と冷静に考える自分が居た。

____は、静かに戸を開けた。案の定、其処には見知らぬ女と――朗らかに笑う、彼の人がいた。

如何どうして――此れは何故なのですか」

目を丸くしている女には目も呉れず、____は彼に詰め寄った。彼の眼は左右に揺れ暫し言葉を探している様であったが、やがて憐れむ視線を寄越した。

「彼女は、僕の婚約者だ」

____の両耳の奥、彼の言葉が虚ろに響いた。

「済まないが、帰ってくれ」

____は、悟った。彼は二股をかけていたのだ。然も、遊ばれていたのは自分だった。此の状況で、何も気付けぬ程____は馬鹿ではなかった。

「で、でも」

____の声は酷く掠れていた。

「良いから。直ぐ帰るんだ」

何も、何も良くありません。
そう言いたかったが言葉が出ない。彼に押しやられ乍ら女の方へ眼を遣ると、女は憐憫と侮蔑の籠った顔をしていた。

其の表情から、女は全てを知っていたのだと悟った。顔がかっと熱くなる。何も知らず幼稚に喜んでいたのは____だけだったのだ。
恥ずかしい。悔しい。悲しい。様々な感情が綯交ぜになり、____は黙って家の外へと追い遣られる事しか出来なかった。

斯うして____は此の日、全てを失った。失うのは、此程一瞬の出来事なのかと思った。

其の日から、彼の女の顔が眼裏まなうらにこびり付いて離れなくなった。真面まともに眠る事が出来ず、食事も喉を通らなかった。

斯様な日が続き、正常な思考でいられなかったのだろう。____はもう一度、彼の人の元へ足を運んだ。

今行けば、全てを嘘だと言って呉れる気がした。何時もの様な薄い笑みを浮かべて迎えてくれる気がした。

けれど、____を迎えた彼の顔に柔和な表情は無かった。呆れた様にため息を吐き、「先日話した通りだ」と言った。

「黙っていて本当に済まないと思っているよ。だけど、君の好意も無下に出来なくて」

彼の冷たい表情と声色に、____の身体は凍り付いた。
最初から、此の人の心に____の居場所など無かった事を悟った。

「兎に角、もう二度と来ないでくれ」

ぴしゃりと戸を閉められ、____は立ち尽くした。思考は微塵も纏まらず、唯深い絶望だけが残っている。眼の奥が熱い。肩が己の意志に反して震えた。

その肩を、後ろから何者かが掴んだ。

振り返れば、眼裏から離れない其の顔が映った。____は思わず女を突き飛ばした。

「痛ッ」

尻餅を搗き苦痛に歪ませる女の顔を見て、____は我に帰った。

「あ……違うの、御免なさい。吃驚して」

手を差し出すと、女は其の手を振り払った。

「触らないで。汚ならしい」

「え」

「何しに来たの、盗人の分際で」

「盗人……」

「可哀想ね、貴女。如何仕様も無く惨めだわ」

女は自力で立ち上がり、____へと歩み寄って低い声で囁いた。

「本当なら彼の人、貴女に呉れてやっても良いんだけどね」

____の心臓が大きく跳ねた。

「……何を、其れなら、何故」

女はくすりと笑った。

「何故って、彼の人お金持ってるじゃない。其れにね、私の事が大好きなのよ、彼の人。ああ、御免なさいね貴女の前で――」

ばちん、と音が響いた。____が有りっ丈の憎悪を込めて平手打ちをした音であった。

「如何して、如何してあんた何かが」

女は再び尻餅を搗き、暫し驚いた様子であったが、よろよろと立ち上がり____を睨めつけた。

「此の、汚ならしい雌豚が」

悪態を吐くが早いか、____の顔面に何かを叩き付けた。平手よりも拳よりも、遥かに堅い何か。骨の軋む音が聴こえた気がした。

頬に広がるじんわりとした熱と女の手元を見て、落ちていた石で殴られたのだと気付いた。憎悪がより強く心の内で燃え広がる。____が口を開きかたけたその時。

「何してるんだ!」

後ろから彼の人の声がした。彼の方を振り返ると、其の顔は____の顔と女を見て血の気が引いていた。

「千代子、君が」

女の方を見遣り彼は言いかけて、____の方へと向き直った。

「____、大丈夫かい。医者へ行こう」

嬉しい。____は素直に思った。心配してくれるなんて、矢張り先程迄の彼の態度は何か勘違いだったに違いない。若しくは彼の女の凶行を目の当たりにして愛想を尽かしたか――いや、何だって良い、今からでもやり直せる。そう思った束の間。

「医者には転びましたと言うんだ。彼女の事は何も口にするな」

冷やかな声を浴びせられる。然し其の言葉の刃に心を抉られる前に、____の肩に鈍い痛みが走った。女の投げ付けた石が肩に当たったのだ。

「如何して其の豚を庇うの」

女の声は怒りに震えていた。

「庇っている訳じゃない。唯、怪我をさせてしまったら大事おおごとだろう」

「良いじゃない、豚が死のうが人様には関係無い」

女が____の掛衿に手を伸ばす。

「其れとも、何。此の豚の顔が好きなの」

女に頬を強かに殴たれ、____は背中から地に倒れた。

「違う、落ち着いてくれ千代子」

____は、呆然と彼らの遣り取りを聴いていた。絶え間無く降り注ぐ凶悪な言葉の矢に、口を挟み抵抗する気概すら残っていなかった。

「煩い」

女が、____に跨がって己の簪に手を伸ばす。

「こんな顔」

簪の切っ先が____の顔面に向かって弧を描き走る。

「____」

彼が名を呼ぶ声がする。
斯うして名を呼ばれるのは、此れが最後になるのだな、とぼんやり思った。
____は咄嗟に顔を右に背けた。

瞬間、肉の裂ける音が頭に響いた。
直ぐに骨の削れる音と砕ける音が続く。砕けた音は右耳からしか聴こえなかった。

遅れて、激痛。

____は意識を失った。

其れから、意識を取り戻した____は、医者から左耳の損傷と聴力の喪失を説明された。彼の女の刺した簪は耳朶を裂き耳孔を削り、耳小骨を粉砕したらしい。医者は脳が無事で良かったと言った。

治療費は全て彼の人が負担した様で、____には請求されなかった。とは言え、____が失った物は非常に多い。聴力の喪失に加え、顔面にも大きな傷が残っていた。

____は、彼の人と彼の女が如何なったのかは知らない。知りたくも無かった。知る事が恐ろしかった。

其れから____は、他者との関わりを可能な限り避けて生きる事になった。顔を隠し耳を隠し、唯日々を繰り返し生きた。其れでも隠し切れる事では無く、斯様な顔では嫁に貰ってくれるひとも居なかった。

幸い、診てくれた医者の伝手で給仕の仕事を貰えた為、贅沢は出来ないが生活は出来ている。然し人前に出る仕事、如何しても此の顔が足を引っ張る。客に暴言を吐かれた事も、一度や二度では無い。

____の足はずっと、鉛の様に重い。医者は精神的なものだと言っていた。

____は彼の日が何度も思い出されて眠れない夜が殆どであった。最初は、彼の女を憎んだ。左耳の聴力を奪い、斯様な顔にした彼の女を赦せないと何度も思った。彼の人を愛してもいないのに、お金の為に結ばれようとしていた彼の女を殺したいと幾度となく願った。けれど、激情は長くは保つ物ではないらしく、今では寧ろ彼の時死んでいた方が楽だったのに、と思う様になっていた。

今日、此処――井手ヶ宇都の滝に迄来た理由は其処に在るのかも知れない。

昔、彼の人から教えられた「片耳豚」の話。
彼の話が本当であれば、永田川上流の此の滝に片耳豚が現れても奇怪おかしくない筈である。其れに、____は一人で居る。より出現し安い状況と言えるだろう。

若し片耳豚が現れてくれたら。
____の此の喪の黒の人生に終止符を打ってくれるかも知れない。

「信じている訳じゃないけれど」

呟き、辺りが暗くなっている事に気付く。何れ程此処に居たのだろう。帰ろうか、と思ったと同時、遠く――背後から足音が聴こえた。

心臓がどきりと跳ね、振り返る。人影が見えた。
矢張り、人か。妖怪の類では無さそうだ。____は自嘲気味に笑った。然し、人の形をした妖かも知れぬと――本当は違うと判っていたが――眼を凝らして其の人影を見つめた。如何やら、女の様だ。

女は一歩、又一歩とゆっくり歩いている。いくら足場が悪いと言えど、余りにも歩みが遅く、気になった。何故かとじっと見ていると、理由は直ぐに判った。女は、内股で歩いていたのだ。成程、片耳豚対策であろうかと____は感心した。片耳豚と云う妖怪は、意外にも大勢に知れ渡っているのか。

否。
違う。
彼の女は。
____が忘れたくても忘れる事の出来なかった、彼の女の顔だ。だから知っているのだ。彼の女も、彼の人から聴いていたのだ。

彼の日が眼裏に甦る。
耳に突き刺さる簪の感触を。
人生を滅茶苦茶にされた悔しさを。
そして何より、彼の人を奪われた事への憎しみを。

彼の女は人に非ず、人の形をした醜悪な化生。

人など滅多に通らぬ此の道。
声を搔き消す滝の音。

運命だと、思った。




「厭、来ないで」

眼前の化生は何事か鳴いている。____は化生の着物の掛衿に手を掛けた。ひっ、と化生の喉奥から空気の通る音が聴こえた――気がした。

____は何処か自分では無い何かで在る様な気持ちで、心地良いと感じていた。

掛衿を掴んだ左腕に力を込めて、地面に叩き付けた。粒の巨きい砂利道の為、音は然程立たなかった。化生の口からぐ、と苦しそうな息が漏れた。

心地良い。

____は、右手に持っていた岩を振り下ろした。化生の左腕――肘と、手首を交互に打ち付けた。骨の砕ける感触があった。化生は何やら喚いていたが、一度顔面に岩を叩き付けると静かになった。

心地良い。

反対側の腕も同じ様にした。同じ様にした後で、一本ずつ指を砕いた。指を砕くのは文字通り骨の折れる作業であり、手頃な岩に指を敷き、岩と岩で挟み潰す様にして砕かねばならなかった。其れすら。

心地良い。

「如何…………して」

化生が呟いた。滝の音に紛れ乍ら、此度____の耳は鮮明に音を捉えた。

____は手を止め、黙った随己の欠けた左耳を指差した。然し化生の眼は虚ろ、像を捉えられない様子で有漏有漏と移ろっている。

____は心がすっと冷えて行くのを感じた。何時の間にやらぽかりと浮かんだ月が一人と一匹を照らしている。月は丁度背の位置に在る為、此方から化生の顔は良く見える。とすれば、下から此方を見上げていると____の顔の部分は影になり、良く見えないのだろう――己に影が出来ていない事・・・・・・・・・・・に気付かず、____はそう考えた。

事実は如何であれ、何が起きたか判らぬ随に死に逝く方が、此の化生には相応しいと思った。

____は衿下に手を掛け、無造作に手繰し上げた。固く閉じられた股座を抉じ開ける為、膝に手を置く。

「赦して……ください。済みません……赦して……」

化生も涙を流すらしい。然し滑稽な話である。己が何故此の様な憂き目に逢っているのかも知らず、只無意味に謝罪の言葉を口にしている。

「正にけだもの

____は嘲り、しとどに濡れた股座を力任せに抉じ開けた。両の手が塞がっている為、岩を叩き付ける事が出来ない。仕方が無いので、____は踵を化生のさね目掛け振り下ろした。

うぐ、と鈍い声が響いた。足の力が弛むと同時、____は岩を拾うが早いか、明確な殺意を込めて叩き付けた。鈍い音、鈍い感触。何度も何度も何度も何度も何度も何度も、腕がその感触を二度と忘れる事が出来ぬ程に繰り返した。

化生は痙攣し、抵抗など出来ぬ有り様であった。

____は大きく息を吸った。鼻を突く臭いに噎せ乍ら、肺の中を穢れた空気で埋め尽くす。

____は己の頭に手を伸ばし、するりと簪を抜き取る。

紅に染まった其処に手を添える。

息を吐き。

簪を開中へと突き刺した。

化生は大きく身体を震わせた。____は躊躇いもせず岩で簪を打ち込んでいく。金槌で釘を打ち込む様に。

簪の硝子細工は砕け、細かい凶器と成って化生へと降り注いだ。

____は矢庭に立ち上がり、化生に突き刺さった簪を蹴飛ばした。化生は呻きもしなかったが、如何やら息はある様子であった。此処で止めては成らぬと、息を吐き切る。息を吸おうとした。

瞬間。
憎しみは離散し、恐ろしさが襲って来た。

____は逃げる様によろよろと歩き出した。先程と打って変わり、足が鉛の如く重い。今宵、人の道を外れた獣は____自身だ。

川の流れに沿って歩く。滝の轟音は徐々に遠ざかり、軈て聴こえなくなった。

心地好さは微塵も無かった。只管に恐ろしかった。腕に染み付いた感触が拭えず、鼻を突く鉄臭さは____を逃がしてはくれなかった。

「助けて」

何故、何故斯様な事をしてしまったのだ。何れ程憎んでいようと、此程残酷な復讐など考えた事は無かったのに。

目の前に橋が見えた。宵闇に塗り潰されてはいるものの、月明かりに照らされているお陰で結構な高さがある事が窺えた。

____の影が欄干に手を掛け・・・・・・・・・、飛び降りた。迷いなど無かった。

どちゃ、と鈍い音が響き、声に成らぬ豚の呻きの様な音が川のせせらぎに混じる。

軈て、せせらぎしか聴こえなくなった。

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