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小さな戦争

小学校2年生の時に、作文のコンクールで私が書いた読書感想文が最優秀賞をもらい、地元のFMで朗読が放送された。

もうタイトルも覚えていない戦争を描いた児童文学の感想文。戦時下で父親は出征し、ひもじい生活を送る主人公の描写を受けて、私は、

「この前家族全員で東京ディズニーランドに行きました。すごく楽しかったけど、お土産にミッキーの大きなぬいぐるみがほしいと言ったら、買ってもらえず、悲しくて泣きました。だけど、この物語を読んで、家族全員で一緒に居られる、楽しい場所に出掛けられるだけでとても恵まれた、幸せなことなのだと気付きました。」

みたいなことを書いた。返却された原稿用紙に赤線が引かれ、花丸も描かれていたし、何より書いている時に一番頭を悩ませた部分だから、この部分はよく覚えている。
なぜ頭を悩ませたか、それは、ほとんど創作された嘘だからだ。

ディズニーランドに行ったことは本当だけど、ほとんどの時間が行列に並ぶだけだし、父親はどんどん機嫌が悪くなって、小さなミス(転ぶとか、物を落とすとか)も許されない、でも楽しんでいる姿は見せなくちゃいけないと、終始怯えていた。口が裂けても「すごく楽しかった」なんて言える思い出ではない。
ミッキーのぬいぐるみはちょっとほしいなと思ったけど、そんなことを言える状況じゃなかったし、空気の読めないわがままな子だと思われたくなかったから、口にすら出していない。そもそもお土産屋さんにすら入っていない。

私はあの物語を読んだその時、自分のこんなディズニーランドでの記憶を思い浮かべたりしていない。捻り出して、無理やりくっ付けた。
こんな風に書けば、私がこの物語を自分事に落とし込んでよく読んでいる、戦争の物語の感想文に「東京ディズニーランド」という不釣り合いな言葉を入れるセンスがある、というようなことがアピールできると思っていたから。
こんな風に書けば、良い評価がもらえると思ったから書いたのだ。
これが、「読んだ人に評価されるため」の文章を書くことに成功した最初の経験だ。

それからも何度となく私の策略は成功した。実家には私が小学生から高校生の間に作文のコンクールで獲った賞の賞状やら記念品やらがたくさんある。
今となっては、そんなことで「私は文章を書くのが得意だ」と自惚れていたのは恥ずかしいけれど、でも、これらは私の人生の中の数少ない成功体験の一つだった。
私は文章を書くことが好きだった。

課題を渡されればアイディアが湯水のように湧いてきて、何だって書けた。
いじめに関すること、死刑制度の是非、税金の使われ方…学校で渡されるもので苦労したことは一度もない。課題という意識すらなかったと思う。
とにかく自分の好きなことをして良くて、上手くいけば褒めてもらえるくらいにしか考えていなかった。
自分の考えをどう伝えたら、センスがあるように見えるか、個性があると思われるか、なんて策略をめぐらせて書いた。

創作することも好きだった。
小学生の時には、分厚い大学ノートに詩や短い物語を書き連ねたり、創作の授業があった時には40分の授業中に10作以上作って先生を困らせたりした。
中学生から高校生くらいの時には、HP作成が流行ったり、SNSが普及し始めていたから、そういったものを世間に発信していたこともある。
自分が見たことや経験したこと、頭の中に浮かべたことをいかにおもしろがってもらえるか、かっこいいと思ってもらえるかを必死に考えて、少ない閲覧数でも反応がくることが楽しくて仕方なかった。

どれもこれも今となっては読めたものじゃない文章で、大学ノートは中学時代に既に焼き捨てたし、私に技術さえあればネットに上げていたものも全て完全消去したいくらい恥ずかしい。
だけど私は文章を書くことが好きだったし、書きたいことがあった。
嘘でも本当でも、私には言葉にしたい、人に伝えたいことがたくさんあった。

ここ5年ほど、私は文章を一切書けなかった。
学生という時代が終わったことも大きいかもしれない(最後に真剣に文章を書いたのは卒業論文だったと思う)。
だけど、その少し前から、創作は勿論のこと、大学の課題も上手く書けなくて苦労したし、SNSすらもほとんど更新しない、日記やだれかへの手紙も書かなくなってしまった。

ここ最近の私には書きたいことがなかった。人に伝えたいことがなかった。
でっち上げの虚構も、自分の本当の経験も、どれもこれも人に読ませるほどのものは何一つなかった。
だから、仕事で自分の近況を文章にしなければいけない時はどうしていいのか分からなかったし、SNSもたまに一言、二言書いては消すだけになっていた。

私は知ってしまった。
この世には、神様みたいに美しい世界を創り出せる人が居て、人生何周してるのか分からなくなるほど幅広い知識を持つ人が居て、一度触れただけで一生その人を支えてくれる言葉を紡ぐ人が居て、小説よりも奇なる現実を過ごす人が居る。
そういう人たちが、自分を人目に晒すことや傷付くことを恐れず、どれだけの覚悟と矜持を持って文章を生み出しているのかを知った。

私は気が付いてしまった。
自分がいかに凡庸で、つまらないか。そしてそれが人にバレることにどれだけ怯えているか。
小学2年生のあの成功を経験したあの時から、私自分の文章を「つまらない」人に言われることが怖くて仕方なかった。だから策略をこねくり回して自分の経験を人に食いつかれるものになるように作り替えようとしてた。
そしてそれでもまだ足らないことに気付いた。たまたま成功したことがあっただけで、私の小手先の策略は何にも通用しないを痛感した。

人に伝えたくなるような面白い経験をしていない自分を隠したかったし、日常生活の中からそれを見つけられる繊細さがない自分を隠したかった。
大好きだった文章から逃げ回って生きていた。


noteを始めてからここまで10本の文章を書いた。
自分の不安や決意と向き合った夜、深く感動したアニメや映画、思い返すと苦しくなるほどの何かを私に植え付けた人たち。
忘れたくないと思った瞬間も、もう忘れてしまいたいと思っていた過去も、なるべくそのまま文章にした。
嘘をつかないで、人に見られるつもりでカッコつけないで、と自分に言い聞かせながら書いた。
この10本目に到達できるまで、私は世の中の文章を書いている人のように面白い人間ではないし、自分の感情や取り巻く世界に繊細には生きられない、感性が死んだ人間だとずっと思っていた。

けれど、私は文章にできるほどの経験を、少なくとも10個はしていた。
ちゃんと何かに感動していたし、傷付いていたし、愛していた。
短い、人様に読んでいただく形には整えられていない殴り書きだけれど、ただ時間が過ぎていくだけの日々の中から、自分を構成するものを掴み取り、文章にするだけの感性は持っていた。
それがたとえ人に面白いと思ってもらえないとしても、文章を書くことができた。
私は文章が書けなかったんじゃなくて、書かなかったんだと気付いた。

文章を書けない人間なんてきっといないんだ。
もし書ける人間と書けない人間とがいるとしたら、その差は、特別な経験があるか、人々の心を掴むカリスマがあるかではなく、「私の見ている世界はこんなにも凡庸なつまらない世界です」「こんなにも卑小なものが私です」と空けすけにする覚悟があるかないかだ。
私にはそれが無かったから、文章を書かなかった。


私はここまでの10本で、自分がいかに小さくて、つまらない人間かを浮き彫りにしてきた。書いていて苦しくなるほどに。
人にとっては面白くない読み物だったとしても、私にとっては自分という人間を見つめ直すための必要な経験だったと思う。
自分がどんな人間で、どんなことを感じながら暮らしていて、これからどんな風に生きていきたいか、それをちゃんと分かって日々を過ごしている人なんて、きっと居ない。
どんなにそれがとるにたらないものだったとしても、そのことを知っただけでも、文章を書くことに意味があったんじゃないだろうか。


私は読書が好きだ。
読書は自分の世界を広げてくれる、人生の中では得られない出会いがあると世の中では言われているけど、私は多分そんなふうに思って本を読んでいない。
自分が人生の宝物だと思っている本たちは、知らないものを教えてくれるものではなくて、自分が美しいと思ったもの、苦しかったこと、心の中にあっても言葉にしていなかった感情を、見事に言語化してくれたような文章に出会わせてくれたものだ。
多分、人生の答え合わせのようなものなのだ。
自分は間違っていなかった、一人ぼっちじゃなかった、と安心させてくれる本が好きなのだ。
それはこれからもそれは変わらないし、そんな人がきっと他にもいるはずだ。
だとしたら、たとえつまらないことでも文章にすることは、いつか巡り巡って、同じようにつまらないなと思いながら生きている誰かの心を支えることになるかもしれない。
そう思うと、文章を書くこと、人からの評価にさらされることに、怯えているのは勿体ないように思える。

私が抱えた不安や孤独を、そのままにしても自分がすり減るだけでお腹は膨れないけど、吐き出して文章にして売ればファミチキくらいは買えるかもしれない。
自分の書いた文章に値段をつけて人に売るなんて想像もつかないし、そんなことをする自信も矜恃もないけれど、生き方の可能性の一端を見たような気がして、少し嬉しかった。


私はこからも文章を書くかもしれない。書かないかもしれない。
だけど、自分の中身が見当たらない、つまらない人間であることがつらいと泣くくらいなら、恥も外聞も捨てて言葉にしてしまおうと思う。

その言葉で自分がさらけ出されて傷付くかもしれない。誰にも届かないかもしれない。
だけど、それは苦しい自分から逃げずに戦った記録になる。
未来の自分を支える足場になるかもしれないし、どこかの誰かの心の傘になる日が来るかもしれない。
その瞬間の一つ一つを言葉に残さないと、曖昧な記憶という領域に流されて、本来の価値を喪失してしまうだろう。

私はそれに抗いたい。
そしてここまでに書いた10本の文章が、どれだけつまらないものだとしても、その第一歩になったことを誇らしく思うことにする。

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