【天涯客(山河令)日本語訳】第3章 荒庙

周子舒ジョウズーシュウは気にも留めなかった──
元より死を求めて色々なことをするつもりだ、それ以外のことは何も気にせず、あの老漁樵ろうぎょしょうの口から出た不浄な話は、全て酒の肴となった。

烏篷船うほうせんが静かに川を離れていくと、
川岸の向こうで、娘が愛嬌のある声で叫んだ。

菱角リンジャオ、菱角はどう。」

まるで川の流れのようにゆっくりと年月が流れているようで、周子舒はここで死ぬのも悪くないなと思った。


彼は蓬莱を通る際に伝説の仙山を訪れ、
山の中腹でそう考えていたが、
後になってまた思い出した。

"杏花煙雨江南"はまだ見物したことがない。

※(風入松・寄柯敬仲:虞集の詩)
画堂の紅袖は清酣に寄り、簪も刺せない。金鑾殿に晩直し、東風は柔く、花の中で馬を停めた。傳宮燭を返し、朝衫を身に纏う。御溝の縁には残氷が残り、燕が春を知らせている。簾幕は重く春寒は消えないというのに、誰が銀字を留めるのか。杏の花が満開し、煙雨が曇る江南は、先生が帰ってきたのだと報せた。

(画堂の姫妾は待ち続け、自分の白髪も徐々に抜け落ちて簪も差せなくなった。柔らかい春風と花が咲き乱れる中、馬を止めさせた。
何度も金鑾殿で夜を過ごし、皇帝の為に詔書を起草し、新しい朝衣に着替えたが、宮人は私を学士院に送り返した。皇城の御溝の縁には残氷が残り、その縁の青い水は絶えず揺らぎ、燕は春を知らせている。
カーテンは重く、春寒はまだ消えていないというのに、誰が貴方に手紙を送って慰問する?江南では杏の花が咲き、煙雨が曇り、詩のように、絵のように、人を酔わせているというのに。)※

彼は少し損をしたと感じつつも南下を続け、江南に辿り着いてもなお、そんな感慨に耽っていた。

手の中の乾いた硬餅を一口齧り、頬を膨らませながら齧り続け、ようやく飲み込んだ後、頭をふらつかせながら、江南は見ても、三山五岳はまだ行ったことがないなと、やはり損をした気分になった。


そして、ここで最後の物思いを捨てた。


突然、老漁樵は唾を喉に詰まらせたように罵声を止め、背中を丸めながらわずかに首を傾け、瞬きもせずに一つの方向を見ていた。

周子舒は不思議に思い、
船から微かに顔を出して、
彼の目線の先を見た。

老漁樵は、
岸辺を歩く二人の人物を見つめていた──

それは酒楼の上の灰色の衣を着た男と、
美しい少女であった。

髪は白いが、その両目は電のようだ。
彼をよく見ると、乱れた髪の下に隠れているこめかみはうっすらと浮き出て、手の平は太く、筋骨も発達し、周子舒は勿論、盲人でなければ、この老人の腕前が大したものであることが分かる。

これだけ警戒してじっくりと見つめているということは、あの遥か彼方で老人と目を合わせている知己も、一筋縄ではいかない人物なのだろう。

美貌を持つ少女はぴょんぴょんと跳び跳ねながらも、常にその男の一丈ほど後ろを慎重に歩いていて、僭越なことは何一つとしていない。

周子舒は一目見ただけで、この娘が灰衣の男の下女か侍妾のような身分である事を察した。

この娘はいささかずる賢く横暴だが、
容貌は彼の好みに合っているようだ。

しかし他人のものであることには変わりない、周子舒は目を戻して持っている乾餅へ手を付けた。

江湖はどこへ行っても騒ぎは付き物だ。
朝堂は名利の場で、江湖は厄介の場である。

これを理解できない者は、まるで剣を持ち馬に乗って天涯を歩くことが偉いことであるかのように、死ぬ間際まで絶えず争う。

しかし今のところは是々非々だ。

充分に食事を摂れて、
家族全員が飢えていない彼に何の関係がある?

老漁樵が黙り込んでしまったので、
周子舒はかえって寂しさを感じ、声をかけた。
「爺さん、この餅には少し塩味が足りない、塩の粗いものでも細かいものでも構わないから、とにかく多めに入れるべきだ」

老漁樵は怒ってこう罵った。
「くそったれ、そんなに大きな餅が口に合わんか、飢えた兎の子(役立たず)風情が婆さんみたいにあれも嫌これも嫌といちゃもんばかり付けやがって、糞でも食ってろ…」

口を開ければ止まらない。
その勢いに周子舒は思わず笑って、乾餅を勢いよく齧り、確かに自分は卑しい者なのだろうと思った。


河を渡るには数枚の銅板で充分であったが、
周子舒は豪勢にも老漁樵へ銀子を渡した。

老漁樵は少しも有難く思う様子も見せず、銭が減らされるのを嫌っているのだろう、まるで債権者のような表情をしてそれを掠め取った。

向こう岸に着くと、
老漁樵は忙しなく彼を追い落とした。

「さっさと行け行け。
わしの仕事の邪魔をするな」

周子舒はゆっくりと最後の餅を口へ放り込むと、背伸びをして船室から出て、ぼんやりと言った。

「生まれ変わりを急いでるのか?」

老漁樵は銅鈴のような目を丸くして彼を罵り、彼の十八代先の先祖のことを問い質したいような顔をしていたが、何かを思い出したかのように言葉を飲み込み、不機嫌に舟を漕ぎ出して行ってしまった。


この老いぼれはここで何をしているのか分からないが、なぜあのように身分を偽るのか。もし彼が本当に渡し舟で生計を立てているのなら、貧乏な裤子を履く必要はないだろう?

小舟がゆらゆらと遠ざってゆくのを見て、
周子舒は悠々と言った。

「くそったれ」

人生の半分を斯文のろくでなし共と紛れて過ごしてきた彼は、いつも遠回しに悪口を言っていたもので、白昼堂々とこれほど不遜な言葉を発したことはなかった。

いざ口に出してみると、心に鬱積していたものがことごとく吹っ飛んでしまったような気がして、とても痛快だった。

街の悪口がこんなにも気持ちのいいことなのかと驚きつつ、微笑みながら、また小声で呟く。

「まともな仕事もせずに銭を貰い、
飯を食っても糞をしない老畜生め」

彼がこの言葉を味わい噛み締めると、何とも言えぬ心地の良さを感じ、余韻を感じながら、満足感と共に河辺をゆっくりと歩き出した。


周子舒は一日中歩き回り、ついに夜になった。

城外へ着くと小さな池を見つけ、耐え難い自分の腐った酸っぱい臭いを洗い流し、なんとか人間らしい姿に戻る。

そこで漸く宿を探しに一里ほど歩くと、ぼろぼろの荒れ果てた廟が見えた。中に入り、茅草を広げると、佛の足元に身を屈め、欠伸を一つして眠りにつく。

今は心も晴れやかで、茅草に頭を乗せれば翌日の夜明けまでぐっすり眠れるはずだった。

しかしその深夜、まだ誰にも邪魔をされていない状況の中、すぐ近くで鳴る足音と人の声で目が覚めてしまった。

三人が荒れた廟の門口に現れると、血生臭いにおいが襲ってきて、周子舒は思わず目を開けて眉を顰める。

負傷した者は頭に笠を被っており、意識があるのかどうかは分からないが、十四,五歳ほどの半人前の少年に支えられていた。

その少年は功夫の素養があるように見えたが、気力はなく、病気の牛のように息切れをして、やっとの思いで負傷した者を支えている。

その後ろに下人の格好をした老女が着いてきて、布の包みを胸に抱え、よろよろと小走りで続いていた。

少年は廟門に入った途端、驚いた小さな獣のように、小心翼翼しょうしんよくよくと四方を見回した。

周子舒は仏像の陰に寝そべっていたが、その气息はとても軽く、少年は彼に気が付かず、笠をかぶった男へ低い声で言った。
「李おじ上、暫くここに隠れよう。
怪我を見せて……」

彼の言葉が終わらない内に、死にかけの男が少年の体から抜け出し、息も絶え絶えで背筋を伸ばし、両手を周子舒の方に向け、拳を握った。
「ゴホン……朋友よ……」

彼が顔を上げた瞬間、その声は止まった。

周子舒も気が付いた。
この男はあの時の老漁樵だ。

胸と背中にはそれぞれ刀傷があり、血塗れの瓢箪のような姿となっていたが、すぐに体を真っ直ぐにして腰を下ろした。

「お前なのか?」

老漁樵は苦笑をした。
「くそったれ、お前はあの乞食か……」

その声が言い終わらないうちに、
彼は前方へ飛び出した。

少年は手を差し伸べようとしたが、彼自身も力尽きていて、一緒に地面へ倒れ込んでしまう。

彼は嗚咽の詰まった声で言った。
「李おじ上……」

老漁樵がぴくりと体を動かすと、周子舒は思わず身を乗り出し、血流が不気味な紫色を帯びている様子を見ると、眉を顰めた。

老漁樵は無理矢理に笑顔を作り、
低い声で言う。
「若君はそれでも男か。なぜそんなに泣いてばかりいる?儂は……儂はまだ死んでいない……」

一方の女が涙を拭って言った。
「李伯父様、もし貴方に何かあったら、
我らの令息は誰を頼ればよいのですか?」

老漁樵はその女を睨みつけると、
力をこめて息を吸い、震える声で少年に言う。
「儂も……情けない男だ……あの時、お前の父に恩を受けたのだ、命で報いる他には何もない……」

彼は痰絡みの咳をしたが、
それは最後まで出し切られることはなく、
体を一度痙攣させた。

「小子よ、覚えておいてくれ……」

何かを言おうとしたうちに、廟の入口からまた忙しない足音が聞こえたかと思うと、黒衣の男が大股で入ってきた。


その黒衣は覆面もしておらず、顔には刀の傷跡が付いていた。その窮途末路の三人を見ると、猫が老鼠を捕まえる時のように口元を歪めて喜んだ。

「いいねえ、随分遠くまで逃げた。」

少年は歯を食い縛り、腰から剣を抜くと、
黒衣の男のに飛びかかる。

「殺してやる!」

その勢いは凄まじいが、実に三脚猫のよう(技量が不足している)であった。濃い眉に大きな瞳を付け、霊気に満ちてはいるが、その動作は鈍く、一手も使っていないうちにその男に軽く武器を取り上げられた。

男が手のひらを返し、猫と戯れるように彼の下腹を軽く叩いて彼を一丈以上も先へ跳ね飛ばした。


少年は起き上がると、埃と土に汚れた顔で叫び、少しも怯む様子もなく、再び素手で飛びかかった。

老漁樵は焦って起き上がろうとしたように見えたが、その傷は酷く、少し身じろいだだけで、また地面に酷く倒れ込んだ。

黒衣の男は冷やかに笑う。
「兎の玩具がまた噛み付くか?」

そう言って身を横に躱すと、
爪を曲げて少年の胸を掴み上げた。

月光の下、その手は血と肉で作られたものとは思えぬ淡い青色の冷たい光を讃え、彼の命を奪おうとしていた。

周子舒は余計なことに首を突っ込みたくはなかった。しかし、結局あの老漁樵とは「船渡」の縁があるのだ、この少年はまだ幼いし、この若さで死にゆく様は見たくない。

手に小石を持って、手の平をひっくり返して弾き出そうとした途端、突然鋭い音が鳴った。

黒衣の男は目を光らせて地面に転がり、
少年の手は空を切った。

先程黒衣の男が立っていた所に、長さ一寸の蓮の花の形をした暗器が打ち付けられている。

そして、
一人の少女が可憐な声で言うのを聞いた。

「あんたらみたいな恥知らずが、
真夜中に野原で老女と弱い子供を虐めるなんて」

周子舒の心は揺れた。
その声には聞き覚えがある──

そして、まだ手から離れていない小石を引っ込め、のろのろと寝そべり、静観することにした。

黒衣の男の顔が動き、
目がぴくぴくと跳ねた───

顔の傷のせいだろうか。表情は少し強ばっており、その凶暴さの中に少しの滑稽さを感じながら、彼が怒る様子を聞いていた。

「どこから来たんだ、賤人?」

その少女は笑った。

周子舒が目を凝らして見ると、
戸口で紫色の影がひらめいている。

今日、彼を毒殺すると脅した少女が
入ってきたのだ。

今日は間違いなく奇遇がある。
この荒れ果てた廟中の恩讐、
仇の半分ほどが、彼と関係するのだろう。

この紫衣の少女の主人はどこへ行ったのか。その女は首を傾け、無邪気な顔で戸口にもたれ、人差し指で軽く顔をこすって笑った。

「老賤人、あんた恥ずかしくないの、
年寄りと子供に死にそうな奴を虐めてさ」

老漁樵はもはや息が有るのか無いのかも分からない。昼間は元気に人を罵っていたが、彼は「死にそうな奴」と聞くと、一つの罵倒も放てず、本当に息絶えてしまったかのように地面へ倒れ込んだ。