今わかりあえなくても話す。

子供の頃、何か悪い事や間違った認識をして、叱られて、諭されて。
その場を適当に対象して収めつつも、その意味を理解出来なかった事が沢山ある。

大人になっても、考え方の違いで袂を分かつことがあっても、お互いに良い感じに今の考えを話しておくことって結構大切なのだろうと思う。
相手の考えをふと受け入れられる瞬間が訪れたりする。
相手を今すぐ変えよう、解らせようなんて無駄な事で、自分だって変わらないし解らないからぶつかるのだ。
ただ、大人になると考え方が違い過ぎる人とは距離を置かないと時間がもったいないので、とりあえず話して離れるのだ。
そして、いつか芽吹く物があるかもしれない。
意味があるのは自分自身に芽吹く事だと思う。
相手の芽吹きには特に何の関心も持ってはいけない。
それに、いつまでもいつまでも距離を取らずに言い合い続けていても、特に意味は無い。
寧ろ良くない。
どんどん険悪になり、争いに発展する。
共感してくれる味方を集めだして、そしてどんどん規模が膨れ上がる。
ある程度聴いて、ある程度話して、離れてしまった方がいい。
死ぬ間際とかでも、何か気付きがあるのかもしれない。
それは、相手の考えに迎合する事もあるし、そればかりでもない。
相手が何故あの考えに至ったのか、根本的な理由に気が付くかもしれないし、そのことで誰かの抱えている困難に気が付けるかもしれない。
そういう、間接的な気付きも含めてだ。

生きる事って常に学習の連続だ。
学んで学んで死んでいく。
人間は知りたい。
知らない事が恐怖だからだ。
未知のものは怖い。
そして、イマジネーションは恐怖の克服行動だ。
イマジネーションで恐怖を克服している。
だから小説を書いたり、読んだり、映画を作ったり、観たりする。
漫画やアニメも。
憧れの感情も一歩違えば恐怖と何等変わりないのではないかと思う。
ただのイマジネーションなのだ。
そのイマジネーションの種類が違うから、人は解り合えない。
何が怖いのかも、そもそもまるで違う。
自分なりの怖くないイマジネーションを口に出し続けたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?