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MD2022 NAHA:03 筍崖夕照(じゅんがいせきしょう)

MD2022NAHA:03 筍崖夕照(じゅんがいせきしょう)

2022年10月29日に行われるミッションデー那覇・浦添。
このnoteでは地元AGが協力し、それぞれのミッションのご紹介をしていきます。


今回ご紹介するミッションは「筍崖夕照(じゅんがいせきしょう)」です。
葛飾北斎が描いた琉球の風景。
その「琉球八景」の一つです。

那覇市の波之上を描いた作品です。

鍾乳洞などで見られる筍(たけのこ)のような石を石筍(せきじゅん)といいます。したがって、筍崖とは筍のような岩の崖という意味でしょう。

崖の上の神社は琉球八社の一の宮、波之上宮です。


こちらのミッションはAny orderなのでどちらからスタートしても大丈夫なのですが、今回は波之上自動車学校付近からのスタートします。

車で現地へ向かう場合は、ミッション最終ポイントの若狭海浜公園(駐車場)へ駐車をしても良いでしょう。


まずは一つ目のポータル「辻原墓地跡 」

「辻原墓地跡 」(チージバルボチアト)

 那覇の北西沿岸部の「辻原」にあった墓地群跡。
 かつて、那覇の北の海岸は、「潮の崎(スーヌサチ)」・「波上(ナンミン)」・「雪の崎(ユーチヌサチ)」と呼ばれる岬があり、岩礁台地が連なっていた。「潮の崎」後方の台地は、「辻原」と呼ばれた。
 辻原の墓は、久米村、東村(ひがしむら)・西村(にしむら)に居住した人々の墓も造られ、那覇の一大墓地地帯となっていた。
終戦後の1953年(昭和28)から始められた、辻から若狭(わかさ)にかけての区画整理では、辻原を含む海岸一帯にあった1,700基余りの墓は、すべて移転を命じられ、海岸丘陵は削り取られた。墓石や周囲の石垣の石は、ほとんどが埋立部材や石粉として道路整備などに使われた。辻原跡地は、その後、歓楽街として整備され、現在もその名残を留めている。

お次は「Gokoku Temple Statue」
護国寺山門、右横にポータルがあります。

3つ目のポータルは「臺灣遭害者之墓」

1871年、宮古島住民43人を含む54人の県民が乗った宮古島の年貢運搬船が、那覇港から出発後に遭難し、台湾に漂着。乗務員が山間部の牡丹郷に迷い込み、台湾の先住民に殺害されるという事件が起きました。那覇市の護国寺の入り口にその際殺害された人々の「台湾遭害者の墓」があります。

4つ目のポータルは「小桜の塔」

1944年8月21日疎開船対馬丸は学童疎開者1661名を乗せ、長崎に向けて那覇港を出港。米潜水艦の魚雷攻撃を受け撃沈された、対馬丸犠牲者の慰霊碑。

5つ目のポータルは「鄭迵謝名親方利山顕彰碑」です。

「小桜の塔」より左折階段を昇ります。

6つ目のポータルは「海鳴りの像」です。

「鄭迵謝名親方利山顕彰碑」より階段を下ります。

「海鳴りの像」は、戦時中の遭難船としては対馬丸がよく知られていますが、そうした疎開船だけでなく南洋群島や本土で働いていた人が沖縄に戻るために乗っていた船や、徴兵で県外に向かう若者を乗せた船なども攻撃されました。那覇市若狭には、こうした船、戦時遭難船の犠牲者をまつっています。

7つ目のポータルは「波の上ビーチ」です。

旭ヶ丘公園より波の上ビーチへ降ります。

8つ目のポータルは「なぐやけ」です。
若狭海浜公園に入って行きます。

「なぐやけ」とは
「穏やか」「和やか」といった沖縄の古語。
沖縄戦戦没那覇市民の
慰霊と恒久平和のモニュメント。

最後のポータルは「若狭海浜公園(駐車場)」
です。お疲れ様です。

Mission はこれで完了です。
以上が筍崖夕照(じゅんがいせきしょう)
のコースになります。
お疲れ様でした。

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