運についての話
運だ、運が必要だ。
ふとしたことから出会った人がいる。彼は渋谷の住人で、大抵は決まった喫茶店のいちばん奥の席にいた。どの組織にも属さず、独立していて、表と裏の両方から世の中を見ている、不思議な人だ。何の仕事をしているのか、本業がよく分からない人はたまに居る。彼はまさしくそういう人物で、実際にいろんな仕事をしていた。
彼は俺の10歳上くらいで、仕事の過程で知り合った。その仕事が完結しても、俺は彼との会話が楽しみで、暇を作っては渋谷の喫茶店へ出向き、コーヒーを何杯もおかわりしながら、長い時間を費やしていろんな話をした。5、6時間ずっと話すことがまったく苦にならず、店に「もう閉店です」と促されて会話が終わる、いつもそんな感じだった。平日の喫茶店におけるおっさんのマンツー会話は投資詐欺か宗教勧誘か保険の相談というところだが、幸いそのどれにも当てはまらず、会話を楽しんでいた。
知人の経歴をここで明かすわけにはいかない。だが彼は、政界や財界に様々な人脈を持っていて、どのメディアにも紹介されていないような、いろんなディープな話をしてくれた。それらの話の中身はほとんど表に出せないものばかりなのだが、とても現実とは思えないようなことばかりで、刺激に充ちていて楽しかった。世の中の仕組みの一部を知ったような気持ちになれた。話の中には他人がそれを聞いたらフィクションだと感じるようなものもあったが、俺にはほぼ全てが真実に聞こえていた。よくある陰謀論として片付けられるような内容ではなく、話のほとんどが彼の実体験で、リアリティーがあったからだ。事実は小説よりも奇なり、を地で行くような人だ。俺は何度も彼に自伝を書くように薦めたが、彼は「書いてもきっと出版できない、受ける出版社がない」と笑った。
当時 - 2014年頃だが、俺は公私ともにボロボロな時期で、勤めていた会社と激しく揉め、会社を辞めた。クソな会社はどこにでもあるが、そこは俺の経験上最もクソで、給料は安く激務で、上司も部下も同僚も曲者揃いの、要するにブラック会社だったわけだ。そんなところにいた俺もクソだったと今は思うが、その会社をやっと辞めることが出来て、あるご縁をいただいてフリーランスとして独立したばかりだった。多くのフリーランスがそうであるように、俺はひとりでいろいろ考えて、とても煮詰まっていたのだ。そういうタイミングで出会った彼の話は、これからの人生を生きるヒントを探していたような当時の俺には聞き心地がよく、なによりも楽しかった。
そんなふうにして仲良くなっていくにつれて、彼は新しい仕事を提供してくれたりもした。国内はもちろん、香港やベトナムにも一緒に行った。そういう行動を取るのに、駆け出しフリーランスの立場は都合がよかった。
彼が話してくれた内容は本当に多岐に渡る。何日も何時間も話をしていたのだから当然だ。そのなかでも強く心に残っているのは、運の話だ。
彼自身が強運を自負していて、幾つもの強運エピソードを持っていた。それらのエピソードを書きたいが、とても書けるレベルの話ではない。だが、彼が強運でなければ、とてもその立ち位置には至らない、というのは間違いない。彼の能力や努力とは別の要素がはたらかなければ、彼の立場はつくれないはずなのだ。
「いったいどうしてそんなにも運が強いのか。強運に理由はあるのか」俺は彼にそう尋ねた。
彼曰く、運は人によって持っている量が違う。ボトルに入った水をイメージすると良い。その運は生きていくなかで使われていくが、すべての運を使い切っても、新たに補充はできないようになっている。そのため、どのタイミングでどのくらい運を使うかで、人の生は大きく変わる。彼は若い頃にそういう話を聞いたそうだ。
そして彼は考えた。もしそれが本当ならば、使って減った運を再び補充できるようになれば、それこそが最強だろう、と。そして彼は「運を補充する方法」を探して学び始めたそうだ。もともと歴史が好きだったこともあり、日本史や世界史上の人物で成功を収めた人の背景を調べたり、東洋西洋問わず、運について科学的に学んでみたそうだ。成功した生き方の背景に運がどのように作用したのか。運の量は計測できるのか。運という概念はそもそも何なのか。行動で運を変更できるのか。自分がその時点で持っている運の量を把握する方法は、等々。その学びは半ばライフワークと呼べるような長さで、彼は何年も取り組んだ。そういう学びは方法論が確立していないため、学び方自体も手探りになっていたはずだ。
その結果、彼は仏教、それも密教へと向く。真言密教にそのヒントがあるのかもしれない、と、彼がどういう経緯の学びを経てその考えに至ったのかは分からないが、おそらく学びの中で何か気付きがあったのだろう。重要なのは、彼はその時点で私生活上とても危機的な状況で、追い詰められていて、最後は仏にすがりたいという思いがあったそうだ。そうして彼は出家して仏門に入った。
そうして彼は修行の人となっていくわけだが、何年か修行を続けた後に、すっぱり僧になることをやめてしまう。なぜか。煩悩を捨てきれなかったそうだ笑 もともと豊かな暮らしをしていた人なので、食事や生活習慣を変えることはできても、その対価を求めたくなってしまったのではないか、と俺は想像している。
僧の修行はやめたが、一連の学びを通じて、彼は運について独自の考え方に至った。体系化されていないので、俺がそれを語るのはやめておく。だが、運の補充という発想と方法を彼から聞けて、俺は幸運だったと思う。
そうして、彼から聞いた運の話をきっかけにして、俺は少しずつ自分の運を上向きにできるようになっていった。事実、新たに始めた仕事が少しずつ認められて軌道に乗りはじめた。それは多くの場合、俺の努力やセンスというよりも、人との出会いが貢献したもので、新たな人との繋がりは、運が仕向けてくれたとしか思えないものもあった。少しずつ人との繋がりが増えて、仕事を獲得できるようになっていき、忙しくなっていった。結婚もした。そういう身の回りの変化が起こり、一生懸命仕事をしていくなかで、彼と会う機会も徐々に減っていった。その後の流れは、古くから俺をフォローして呟きを見てくれている方には周知の通りだ。
先日、彼と共通の友人から久しぶりに連絡があった。それをきっかけにして、彼が2年ほど前に亡くなったことを知った。コロナ禍の最中ということもあり、葬儀などはごく身内のみで行われ、俺にはそれを知る術が無かった。最後の彼からのLINEは「近々お茶しましょう」というものだった。そのタイミングで会いに行けなかったことが悔やまれる。
彼は北九州の出身で、お墓は宗像大社の近くにあるということだ。2月に共通の友人と一生懸命にお墓参りに行って、墓前でコーヒーを飲んでこようと思う。
俺は運だけが自分の人生を左右するとは思わない。だが、運を、単なる思い込みだとか、スピリチュアルなアイディアのひとつに過ぎないものだとは思わない。その流れを知り、訓練をすれば、ある程度(ごく僅かかもしれないが)統制できるとも思っている。
これまで成功者と言われる多くの人と会い話をしてきたが、成功の理由を「運が良かった」と言う人が多い。もちろん、能力が高かった人もいるし、苦労をしてその位置まで辿り着いた人もいるだろう。そうした個人の努力や考え方を否定するつもりは毛頭無い。努力無しで成功するほど世の中は甘くない、とも思う。だが、総体的に思うのは、運が人生に与える影響は途轍もなく大きいのではないか、ということだ。そしてさらに、成功に占める運の比重が年々増しているのでないか、と思う。
世の中には実力主義の人が大勢いる。科学的に証明可能な現象しか信じないという、決定論者も多い。そうした人達には無駄で不快な話になってしまったかもしれないが、人生には時々、信じられない不運や類稀な幸運を感じられる瞬間がある。俺は周りの人から「劇場型人生」と言われ、これまでめちゃくちゃな生き方をしてきたわりに、今それなりのところに着地できているのも、運あってこそのものだと実感している。
彼が教えてくれた運への向き合い方が今の俺に影響しているのは間違いない。オカルトやスピリチュアルではなく、実際に現代社会で使うために運を研究した人は、あなただけだと思います。ありがとうございました。安らかにお眠りください。
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