監査の時代

中高時代からの友人に数年ぶりに会い、積もる話をしたネタ。

その友人は現在も監査法人でバリンバリンと監査をしている。一方で私はここ10年は監査の現場から遠ざかっている。先に友人の言葉、⇒後にハナーの言葉という構成で。


①リスクはすべて直す必要はない。とりあえず認識しておくというだけでも意味がある。
⇒不可知のリスクはまずいが、認識さえしていればとりあえず不意打ちは避けられる。またリソースは有限なのですべてのリスクに対応するというのは不可能。優先順位をつけて重要度や緊急度の高いものから手を打つわけだが、すべてに対応をしようとすると却ってほころびが出るので、一部は「認識している」というだけで泳がせておくのも可ということ。経過だけ観察し、重大事に育ったなら手を打てばよい。

②ベネッセの顧客情報流出は対応アプリの更新ミス。USBは挿しても無反応となっていたが、たまたま携帯を挿したら持ち出し可能と知った社員の出来心。
⇒ルールや基準がしっかりしていても即時更新が遅れれば意味がない。不正の機会を与えてしまうと悪事に走ってしまう弱い心が人間にはある(性弱説)

③タクシーチケットの不正、クレジットカード支払いをすればレシート以外にカードの使用明細が出てくるのでそれで経費申請をしたら通ってしまった(経費の二重請求ネタ)
⇒②とほぼ同様。経理や監査チェックをする側はある程度「いじわる」でなければ務まらない。この手の不正は発覚しても「故意ではなく間違いでした」という言い逃れの余地があるのも要注意。

④日本の過剰品質は品質劣化と同じく問題。たとえば食品廃棄が早すぎると実際はまだ価値があるものが帳簿上は価値ゼロになる。そこでダイコーのような横流しの余地が生まれる。中国企業も同じで日本の不良率基準を悠々とくぐる力があっても、わざとぎりぎりの申告をして、帳簿上の不良品、実際は良品を横流しする事例がある。
⇒ルールと同じく、データや帳簿上の価値と実態の価値も極めて密接なリンクをしていなければ不正の余地を与えてしまう。特に日本にありがちな「過剰品質なら良いだろう」という思い込みも問題。よく止まるJR問題と同じ(わずかな風で厳しい基準で止めるので事故は防げるが確実に交通渋滞が発生するリスクは看過している)。

⑤海外は1回目はセーフだが2回目はアウトという発想でいると「なら1回は不正をしないと損」という発想が働く。ロボットレースで「コースアウトは1点のペナルティ」となると日本の学生は正しくコースを走ろうとするが、海外学生は「1点のペナならそれ以上に時間が浮く価値を見る」としてショートカットを行う。
⇒日本はなにせ「ローリスク」が変調され過ぎ。特に投資などは「ミドルリスクハイリターン」を探し出す嗅覚が必要。

⑥日本は100店から減点。海外はそもそもが60点として100点は神の領域として考慮。
⇒ミスゼロを目指す理想とミスゼロは不可能という現実のどちらを見るか。事故後に見られる日本特有の表現「あってはならないこと」というのは感情が入り込み過ぎていて正しいものの見方を妨げていると思われる。

⑦昔に比べて日本の物づくりの力が落ちたというより、単純に「働かなくなった」「働けなくなった」ということが大きい。右肩上がりの時代はブラック企業などという言葉もなくサービス残業しまくっていた。いわば『職人の意地』があり、またそれが報われるところがあった。
⇒かといってもう昔のやりかたには戻れない。ならば内部効率をあげ、量より質を見る「監査の時代」ではないか。

CIA(内部監査人)や行政書士資格から「ルールについて」、将棋の趣味から「格上との戦い方」に特化して思考を掘り下げている人間です。