ガリレオとフィギュアスケート

経験も知識も立ち位置も価値観も違うんだから様々な意見があるのは当然なわけで。
「自分はこう思う」と言う権利を捨てる必要はないでしょうな。権利を捨てるにしても、結局損得を考えて自分の意思で意見を捨てたほうが得だと考えて捨てるのだから、不満を持つ理由もありません。不満を持つくらいなら捨てないことでしょう。どちらにしろ不満が生じないで済みます。

一見、異端審問に屈したガリレオが「それでも地球は回っている」と地動説をぼそっとつぶやく。アレでいいのです。公に主張する権利は一度断念するにしても自分の中の主張は貫く。自分の内心まで変える必要はありません。あきらめずに「今に見てろ」でいいんですよ。

ここからの勝負は「どちらの意見がより第三者に支持されるか?」ではないかなと。
場合によっては「この世の真実」よりも力があるのは「第三者に立証できるかどうか」でしょう。ガリレオの事例でいえば地動説は「この世の真実」ではあったものの「第三者に立証できる力」で当時は劣っていたために押し込まれたわけです。

いわば、この世の真実という「映画本編の面白さ」と別に第三者に支持されるよう働きかける「映画予告編の面白そうと思わせる力」で初動は決まるわけです。まあ本編が面白くなければ、予告編が面白いだけでは結局しりすぼみになるわけのも事実ですが。

第三者の評価が大きいという意味では「フィギュアスケートの表現力」みたいなところがありますな。持論に自信があるのなら公開討論をすればいいわけです。持論が間違ってると証明されたら訂正すればいいだけのことですから。

CIA(内部監査人)や行政書士資格から「ルールについて」、将棋の趣味から「格上との戦い方」に特化して思考を掘り下げている人間です。