「潔さ」と「あきらめ」の使い分け

結論が明確に出る前に勝利をあきらめるのはアキラメがはやい。敗戦が決定した後に素直に勝者を褒め称えると潔い。とは言え敗戦が明確に決まるラインはどこだろうか?誰が決めるんだろうか?

多数派が納得するラインはジャッジやレフリーという第三者が「それまで」と告げた時だろう。判定者が存在する場合は彼らが勝負の終わりを決めてくれる。

しかし、人生の諸問題には判定者が介在しない事も多い。そんなときに敗北を決定するのは自分自身である場合が多い。だから死ぬまで頑張れということになる。

安西先生「あきらめたら、そこで試合終了だよ」byスラムダンク

言葉のきれいさや表面のカッコよさのためだけにマンガを読むのはもったいない。マンガやゲームに限らず、良い話をたくさん知り、憧れているだけで自分の人生に適用しなければ宝の持ち腐れと言うものだ。かっこいいキャラやあこがれるキャラへの愛情が本物ならば上っ面を真似るだけでなく、実際の自分の人生に取り込み、昇華してみせれば思いの強さが証明できる。

<<私が思い入れを持つバイソンというキャラは美形ではなく、
ブサイク。強くなく、どちらかと言わずとも弱い。
人気もなく、どちらかと言えば忘れられる存在である。
別にバイソンのコスプレをするつもりはないが(笑)
自信の性能や存在がこのくらいだろうという
自戒の表明なのかもしれない。>>

二流で弱いからって人生を簡単にあきらめる??逆ではないか。二流で弱いからこそ他から抜きんでるために「アキラメの悪さ」が必要だ。かっこ悪いのは承知の上、泥臭くても、意識がある限り、最後まであがき続けるべきだと私は思う。勝利を得る過程の充実が重要なのであって勝利そのものは一定の結果にすぎんでしょう。

<<無分別に美形キャラを使い、強いキャラで当たり前に
戦い約束された勝利を入手して喜ぶ人間に思うことは
「いつまでソコ(底)で満足してるんだい?」と
いうことか。確かにアレはアレで爽快感があって楽しいが、
ワタシはちょいと物足りない。
キャラクターじゃなくてプレイヤーが頑張らなきゃ。
キャラの能力がいくら高くても使ってるプレイヤーが
不出来ではソコが知れるというもので。
充足感の段違いなことに気づいてもらいたいなぁ。
そりゃ、最初は幼稚園児のゴッコ遊びと同じで
皆がそこを通ります。私も通りました。
でも、いつか登る気を持ってほしいものです。>>

試験やら将棋やらで格上に挑み、全力を尽くした挙句に負ける体験を積み重ねて、考えていることが2つ。

1つ目はわかりやすい。「結果は不合格でも積み重ねた努力が消えるわけじゃない」というもの。オーソドックスで、安定感がある考え方だと思う。

2つ目「不合格が最終結果って誰が決めたんだ?」というもの。いや、採点者を脅したり、頼み込んだりする意味じゃないです。自分がもう一度その試験に挑むと決めた瞬間に、その不合格は最終結果ではなくて途中経過に切り替わる。

ワンチャンスの試験には使えない思考ですが、次回がある試験の場合、不合格を最終結果にするのか途中経過にするのかは自分が決められるということ。

不合格に負けない魂があれば、それはストーリーを盛り上げるためのイベントに過ぎなくなります。

「成功の秘訣?成功するまで続けることさ」
「才能とは努力や情熱を継続する力である」
「(不合格という)事実は変えられないが解釈は変えられる」

就職活動もCIA試験もこの考え方でやってきました(無理せず、継続性最重視方法!)。

「自分が負け時は意識を失ったときだけだ。自分の心は絶対に折らない。あきらめん!」と決めた瞬間に人生楽しめるようになります。少なくとも私はそうです。自分の低い才能なんて関係ないですね。

たしかに一流の勝ちっぱなしの人はうらやましいです。でも、敗北からの逆転の醍醐味は二流の私のほうがたくさん知ってると思います。勝ちっぱなしの人は負けたことがないわけですから。

幸福ってのは事象ではなくて「思考や解釈の方法」なんじゃないかと最近思っています。むろん、「大金持ち」とか「異性にモテモテ(笑)」とか幸福を実感しやすい事象があればラクに幸福を感じられるんでしょうが、「夕日がきれいだな」とか「電車の中でお年寄りに席を譲る人を見てほっこりする時」とか、幸福を感じるトリガーが多い人間は幸福になりやすいでしょう。私自信がそこまで実践できていないのが説得力に欠けるところですが。。。

CIA(内部監査人)や行政書士資格から「ルールについて」、将棋の趣味から「格上との戦い方」に特化して思考を掘り下げている人間です。