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エドワード・ゴードン・クレイグの「俳優と超人形」

そもそもマイムと関係あるの?

俳優と超人形論とは、演出家の時代といわれた20世紀の演劇史において、一番はじめに演出家(Stage Director)という役割を提唱し、また、自らそれを名乗った人物であるエドワード・ゴードン・クレイグによって1907年に書かれた、彼の代表的な演劇論である。

そもそも、この小難しそうな話とマイムは関係あるのだろうか。
ある。大アリである。

近代マイムの父と言われるエティエンヌ・ドゥクルー。彼は、コーポリアル・マイムという表現様式を探求し、独自の芸術表現にまで高めた。彼はこの表現様式を、「俳優と超人形」論の理想を実現しうるものとして考えていたフシがある。

つまりこの話は、近代マイムと演劇との根本的な接点についての話なのである。だから重要なのだ。

だいたいの時代の感じ

時代は、20世紀はじめ。
産業革命という時代の大波が、社会にさまざまな変化を及ぼしていた。演劇とて例外ではない。

「演出家の誕生」、そして「劇場の暗転」という、途方もなく大きな2つの変化が起こっていた。 が、この話は長くなるので、また別の記事でまとめる。

そんな時代に、シェイクスピアの国イギリスで、当時35歳のエドワード・ゴードン・クレイグ(演出家、装置家、理論家)が1907年に書いた論考が、今回とりあげる「俳優と超人形」というものである。

俳優と「超人形」?

「俳優と超人形」でクレイグが言ったことは、

「俳優なんかいらない」

ということだった。めちゃめちゃ極論である。

そして、その代わりに必要な存在として宣言されたのが、「超人形」である。
さすがにはしょり過ぎているので、もう少し正確に言おう。 クレイグは、

演劇が芸術になるために、「俳優」は追放されなければならない

と書いたのだった。
逆にいうと、俳優がいたら演劇は芸術にならない、とクレイグは考えたのだ。
では、そこでクレイグが言っている「俳優」とはどんなものか?
ざっくりいえば、それは自然主義的な様式にしたがった俳優像、つまり、「役を生きる」みたいな俳優である。

20世紀初めの俳優像

そういう自然主義的な俳優像、あるいはリアリズム演劇は、クレイグが「俳優と超人形」を発表したとき、まさに当時の演劇の最先端だった。
それを牽引していたのが、フランスのアンドレ・アントワーヌ(1858-1943)と、ロシアのスタニスラフスキー(1863-1938)である。

こういった演劇のスタイルが当時必要とされていたことにも、もちろん理由があるのだが、それもここで書くと長くなるので、また別の記事でまとめる。

ともあれ、クレイグが不満だったのは、俳優の「感情」である。
役になりきり、感情の風に左右されて動かされる「俳優」の身体/表情/声といった要素。それが不満だった。

クレイグが演劇に抱いた不満

クレイグが抱いた不満を端的にまとめるために、一文引用してみよう。

「役の中へ入りこむ」という俳優の舞台での言い方がある。もっと良いのは「役からすっかり出る」というものだろう。
武田清訳『俳優と超人形』1907

これだけだと、要領を得ない。
彼の文章自体たいがい要領を得ないのだが、ちょっと別の箇所からも引用してみよう。

「だけど、こんな俳優は全然いなかったのかい」と美術家がたずねる、「身体を頭のてっぺんからつま先まで訓練したために、感情をそれほど呼び起こすことができなくても、身体が精神の働きに呼応するような俳優が?そういうふうにやれた俳優が、一千万人に一人はきっといたんじゃないのか?」「いないね」と俳優はきっぱりと言う。

美術家と俳優の対話という形式になっているが、これはクレイグの脳内での妄想会議である。美術家というのが、クレイグの不満や意見を代弁している。

要するに、彼は俳優をひとつの素材として見ているのである。

演劇をひとつの絵画に見立てるならば、それを構成する画材とか粘土とか直線とか、そういうものとして俳優を捉えた。

となると、感情が邪魔になるのである。
舞台に感情が用いられること、すなわち、舞台が偶然に支配されることだからである。

近代演劇では……そこに提示されるものはすべて偶然の性質を帯びている。俳優の身体の動き、顔の表情、声の響きなどすべてが彼の感情の風のなすがままである。……俳優の場合は、感情が彼を支配する。

感情に支配された俳優の演技が、仮に偶然の産物だったして、それはマズイことだろうか?クレイグに言わせれば、決定的にマズイ、ということになる。

芸術はデザインによってのみ生み出される。……われわれは計算できる素材で仕事をすることができるだけだということだ。……たとえそれがまったく真実であったにしても、迷いでた感情、偶然の感情には価値などありえないのである。……感情はまず第一に想像し、次に破壊する原因である。……芸術は偶然の入る余地を認めない。

かなり極端なもの言いではあるが、現代の演劇実践において、ある程度ベースになっている考え方だとは思う。(その上で、上演をパフォーマンスとして捉えたときには、その一回性、偶然性が決定的に重要になるだろうと僕個人は思うけれども。)


さて、クレイグの理屈を表にすると、以下のようになる。

     【美術】   :【近代演劇】
[素材]  画材/粘土/直線:    俳優
[支配者]   精神    :     感情
[計算]   できる    :  できない
[判定]    芸術    : 芸術じゃない

演劇をクレイグにとっての芸術にするためには、この理屈のどこかをひっくり返す必要があった。そして彼がひっくり返したいと思ったのが、「感情に支配される俳優」というわけだ。
そこで、俳優にとってかわるべき存在として彼が主張したものが、「超人形」である。

で、「超人形」って?

超人形なるものについてのクレイグの主張は、ほとんど叫びといってもいいほどの熱量がある。詩的で、それゆえに掴み所がない部分も多い。
しかし、その中で執拗に賛美されているモチーフがある。
「古代の神殿の石像」である。

俳優は去り、そして、その地位に生命のない像が就かなければならない。彼がもっと良い名前を手に入れるまで、われわれは彼を超人形と呼ぶことにしよう。操り人形やマリオネットについてはたくさんのことが書かれてきた。……彼は古代の神殿の石像の子孫だ。

エジプト芸術を例に引いて、彼はこうもいっている。

その沈黙の様子は死のごときものだ。しかし、そこには優しさがあり、魅力がある。力強さと隣り合わせに可憐ささえもがある。そして、一つ一つの作品を愛情が満たしている。だが、芸術家の言葉のほとばしり、感情、これ見よがしの個性は、一つもないのである。……うぬぼれも不安も滑稽さもなく、芸術家の心や手が、彼を支配する法則の命令に背くことは一瞬間の千分の一もなかった。何という見事さ!これが偉大な芸術家たるものだ。

彼の論考は、こういった詩的な理想論をぶち上げるところで終わっている。
彼自身が、演出家としてその理想を具体化するところまではいかなかったようで、アルトーなどと同じく、のちの多くの演劇実践に影響を与えた、理論家としての側面が強い。

ともあれ、ここにあるのは、生命と死との対比、言葉と沈黙の対比である。
ようやく、話がコーポリアル・マイムに近づいてきた。

コーポリアル・マイムと「超人形」

明らかな苛立ちを見せながら、画家は立ち上がって部屋をうろうろする。彼はその友人が、感情などまったく関係ないと答えるのを、身体が楽器であるかのように、顔や表情、それに声などすべてを制御できると答えるのを、期待していたのである。
本引用のみ内野儀訳『俳優と超人形』1907 / 太字は引用者

コーポリアル・マイムの基礎訓練のひとつに、「スケール(the scale)」というものがある。フランス語で”les gammes”、「音階」という意味である。
以下の動画で、0:15〜2:28くらいにやっているものだ。

こんな風に、動きの分解を通して、自分の身体を制御する術を身につけて行く。
そして、音階としてバラしたこれらの動きを組み合わせて、ひとつの音楽を作っていく。そのまとまりが、ひとつの作品になるわけだ。

以下は、ドゥクルーの「La Statue(彫像)」という作品である。
ピグマリオンよろしく、ある男と、彫り出される女がモチーフになっている。

彫像の、ある種独特で様式的な動き。そしてそれを彫り出していく男の動きもまた、どこか様式化されている。(ただ、ここでのドゥクルーの動きは結構コミカルというか、ドラマティックである。でもそれもいい。)

この作品はそのものズバリをテーマにしているわけだが、コーポリアル・マイムが「動く彫刻」と評される理由が何となくわかっていただけただろうか。

コーポリアル・マイムにおいて、身体を動かす原理は「感情」ではない。そこにあるのは構造であり、こう動かせばこうなるという、動きと形の論理である。感情は、むしろその動きや形から生じていくものとして扱われている。

ここまで文章を読んでもらった人には、「超人形」とコーポリアル・マイムについて、その共通項をあえて指摘する必要はないだろう。そしてこのコーポリアル・マイムという表現様式を探求したドゥクルー自身は、以下のように述べている。

クレイグは身体の無能ぶりを主張するが、身体を意のままに動かす時に生じるむずかしさは、大変ではあっても実は乗り越えうるものであることに彼は気づいていない。ここから私はどのような結論を引き出したか。
一、マリオネットが少なくとも理想的な俳優のイメージであるなら、マリオネットの特質を獲得しようとするべきである。
二、そうであれば、わたしたちはその特質にあてはまる身体訓練を見つけて実践する以外に、それを獲得する方法はない。ここからコーポラル・マイムが導き出される。
……
その後、わたしたちの作品を見たクレイグは、感動的な記事を書いてくれたのだが、他の原稿も含めて、わたしたちの作品と自分との関係には触れていない。彼が書いたものと、わたしたちが上演したものとの間には父子の関係がある、もしくは兄弟に近い関係があることさえ彼は認めないのだろうか?端的に言えば、似たようなことを目指しているのだと?これもまたわたしを悩ませることになった。コーポラル・マイムはクレイグの要求に十分答えているように思うのだが。
小野暢子訳「マイムの言葉ー思考する身体」よりゴードン・クレイグ(1947年のスクールの開校小講演)/ 太字は引用者

このように、近代マイムの父とされるエティエンヌ・ドゥクルーは、彼の実践において、「俳優と超人形」論の影響を明確に自覚していたし、その理想を担う様式として、自らの実践をとらえていたことがわかる。

とすれば、その系譜に連なる現代のマイムの実践家としては、「俳優と超人形」論は無視できない。

少なくとも、ある時代の「演劇」の問題点を克服するための、一種のカウンターとして近代マイムが現れたことは間違いないわけだ。だから、「演劇とマイムの今」を考え直すために、その出発点を「俳優と超人形」に置いて考えてみることは、あながち間違いではないだろう。

最後に

ここまで書いておいてなんだが、できれば僕が書いたことはあまり信じないほうがいいと思う。
これは、僕が自分の体験を元に「こう読んだ」ということであって、他の人が読めば、他のあり方で現れてくるだけの奥深さがこの論考にはある。僕よりも豊富な経験を持っている人ならなおさらだろう。僕は自分の意図に沿うように引用文を選び出しているし、省略している論点もたくさんある。

今回引用した文章は、翻訳出版されているものとして武田清氏の訳文を使用しているが、一部、内野儀氏の訳文も使わせていただいた。この二つを比べてみても、ニュアンスが結構違ったりするので面白い。

内野儀訳の「俳優と超人形」は、PDFが公開されているので、ネットで無料で読める。 そんなに長い文章でもないから、ぜひ直接読んでみてほしい。
それでは。

補足

英語が堪能な人なら、クレイグの原文を直接読むのもいいかもしれない。
例えば、原文では” just as if his body were an instrument. “となっているところを、内野氏は「身体が楽器であるかのように」、武田氏は「彼の身体が道具ででもあるかのように」と訳している。どちらの語を採用するかはそれぞれの実践によって変わってくるかもしれないが、コーポリアル・マイムについて語るなら、断然「楽器」を採用したいところだ。


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