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思い出すための語彙とベタについて、あるいは劇団しようよの「あゆみ」

CoRich舞台芸術まつりの結果が出ました。

劇団しようよは残念でしたが、審査員の方のクチコミ評を読んでいて、京都で2015年に上演されたときに感想を自分も書き留めていたことを思い出して、別にそのとき公開はしなかったのですが、今の自分の問題意識にも繋がっているのが面白いと思ったので、載せてみます。

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思いだすための語彙は、そのひと自身のなかにしかない。
だから、父親が娘の一生を思い出すなら、父親は自分の語彙でそれをかたるしかない。

父親は、少年の体と、青年の体と、中年の体、そして「女の一生」というイメージ、を語彙にして、娘の人生をかたるしかない。

そのイメージのいびつさ、かなぁ…。

よかった点もそうだし、しっくりこない点もそう。

しようよが僕に見せてくれた風景は、女性の主観を感じなかった。
「ある女性の一生」を女性として主観的にかたる目的なら、とても稚拙なものだった。
でも、女性の主観を「騙る」という意味でなら、それは成立していた。
父親の話として、感動した。

でも本家のあゆみは、まっすぐ女性の一生を主観的に語ったものなんだろうし、それがすっと来なかったのは、「あゆみ」をみたっていえない気がしてしっくりこない。

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