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「俳優と超人形」から始めるマイムの話

マイムについて考えるために

僕は、マイムをやっている。
もう少し詳しくいうと、関西の小劇場演劇の界隈で、「マイム」というジャンルを軸に舞台表現に関わっている。そこで人には、「マイムをやってる人」として自分を説明する。しかし、これがなかなか思ったように伝えられない。
普段演劇を見ない人たちだけでなく、同じく「舞台」に関わっている人たちにすら、自分が何をやっているのかの説明が難しいのだ。
これには2つ理由がある。
まず、マイムがこういう、ステレオタイプとしてのイメージを強く持っていること。

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白塗り、白黒ボーダーのシャツ、手袋、帽子に花。


そしてもうひとつ。僕自身は、マイムについてややズレた解釈を持って活動している。この2つである。
どちらにせよ、人に説明するのが大変なのだ。


なので、一度どこかに文章としてまとめなければ…というのがこれらの文章を書き始めることになった理由である。
ということでこのブログでは、僕なりのマイムの話をしたい。


演劇、ダンス、現代 サーカス。巷に溢れる様々な舞台表現のなかで、混沌としている現代のマイムの立ち位置を考えるために。そのために、ピエローでも、チャップリンでも、マルセル・マルソーでもなく、エドワード・ゴードン・クレイグの「俳優と超人形」論から話を始めたい。

なぜ「俳優と超人形」なのか?

マイムについて改めて考えるからには、まずそのスタートから考えてみたい。つまり、そもそもマイムは当時の演劇シーンのなかで、どういう応答として現れたのか?ということだ。

そこには、この理論が大きく関わっている。
そして、20世紀の多くの演劇実践が、マイムと同じく「俳優と超人形」論を思想的なルーツに含んでいるのだ。

マイムに関わりはじめてから、いろんな舞台表現を見て「あれもマイム、これもマイム」と思うようになった。それは決して間違いではないのだが、正確でもなかった。いわば同じ親を持つ兄弟のようなのがたくさんいて、あるものは叔父だったり、姪だったりする。じゃあその家族のなかで、マイムはどういう存在なのか一度確認しておこうというのがこれからの話の趣旨だ。

photo credit: wuestenigel Speech bubble on blackboard via photopin (license)

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