【詩】息継ぎ

澱み

あの子を食べてしまいたい。今まで食べたどんなものより、あの子はきっと美味しいから。
だけど私は我慢する。飢えているわけでも、渇いているわけでもないから。
私は単に飽いているのだ。愛することに。愛されることに。
私は飽いている。求め、また求められることに。
私は、私の中を誰かが通りすぎていくことにうんざりしている。
見知らぬ誰かに、魂の奥に踏み込まれるのはもう嫌だ。
だから、私は私のために歌う。
あの子の顔を眺めながら、いつか食べてやろうと思って。

王国

狭い部屋に閉じこもっていると、まるで自分が王様になったようだ。
邪魔する者は誰もいない。静かで、安心できる自分の国。
ずっとここで暮らせればいいのに。何も考えなくていい。
苦しみはどこから生まれるのか。どうしてこんなに苦しいのか。
どこまで耐えれば、この苦しみは終わってくれるんだろうか。
王様になれば、そんな悩みはどこかへ吹っ飛んでしまうだろう。
だって王様は偉いんだから。小さなことなんて気にしない。
楽しいことに、楽しいことだけを積み重ねていく。
そうやって自分だけのお城を作ればいいのだ。

くり返す音

川に飛び込んで、足をひたしながら考える。
水槽の中にある大切なもの。芯まで冷えた石。原石。
ぼくは両親の自慢の息子で、何でも知っているのに。
でも、子供たちはぼくの味方ではなかった。
ひとりでジャングルジムにのぼりながら、ぼくは遠い世界のことを考えるけれども。
空想の銀幕はいつも、耳をつんざく悲鳴によって破られた。
痛みはいらない。だって、それはもうよく知っているから。
それでも繰り返し。予習復習は大事です。ドリル、ドリル、ドリル。
痛みも、妬みも、嫉みも、僻みも、余計なものは全部、机の引き出しに押し込んでしまおう。
草むらを走り、目につくものをちぎって投げ、ぼくは心臓の揺れる音を聞く。
空に金星の輝くのを見て、ぼくは月の狼が恨めしげに遠吠えするのを聞いた。
それを爪でひっかくと、川に飛び込むぼく自身の音がする。
もう冷たさは感じない。

嫌悪

ふざけた場所にトラックが停まっている。子供たちが叫んでいる。
大人たちは笑い、鴉は道行く人に糞を落としている。
こっちを見ないでくれ。通り過ぎていく見知らぬ人々。
うんざりするような視線で、わたしの皮膚を撫で回そうとしないでくれ。
これっぽっちも興味がないのだ。
あなた方の人生にも、喜怒哀楽にも、快も不快も、わたしにとっては無意味なのだから。
できれば死んでもらいたい。
それでも、生きていたいというのなら、せめて静かにしてほしい。
これ以上美しくない言葉で、世界を汚すのはやめるべきだ。

見覚えのない宿

わけもなく安息を求めて、ぼくは見知らぬ街の中を急いでいる。
朝方から容赦なく降り続いていた雨が、アスファルトの下に眠っていたものを運んでくる。
夜の闇に、後ろから肩を叩かれた。
ちょうどその時、ぼくは見覚えのない宿の前に立っていた
突き出した庇の下は、そこだけが雨に濡れておらず、正面玄関の硝子のむこうの暗い闇には、うっすらと橙色の光が灯っていた。
そのぼんやりとした光を見て、ぼくは言いようのない胸騒ぎに襲われた。
まるで光が頭の中に沁み込んで、忘れていた記憶が、呼び醒まされでもしたかのように。
甲冑を着た塔のような建物。雨に打たれて黴臭い匂いを漂わせている壁。処刑台のようなバルコニー。
およそ安らぎとは程遠いその佇まいに、しかしなぜか誘われるように足を踏み入れていた。
重厚な扉をひらくと、闇と静寂とが内側を支配している。
陰気な顔をした支配人の、めくれあがった唇が、ひやりとぼくの魂を震わせた時。
夜を覆う激しい雨音が、闇の中のそこかしこからぼくを見詰めている影どもの、じっと息を殺しているその気配を、ぼくの意識から遠ざけようとしてくれていた。

死を想う

不老不死になりたい。それが夢だって言ったら、きっと君は笑うだろう。
でもふざけているわけじゃない。冗談でもない。
ぼくは死にたくない。死が何よりも恐ろしい。
みんなは怖くないのか、自分の存在がなくなってしまうことが。
傍らで眠る妻の横顔を、二度と見ることができなくなるということが。
もっと知りたいことがある。もっと行きたい場所がある。
これまでの人生で得てきたものも、これからの人生で出会うものたちも、死ねばすべてが失われる。
ぼくはそれを受け入れない。
ぼくは他人よりも恵まれた人生を送ってきたのだろう。
大きな怪我にも、天災にも行き会わず、ぼく自身を憎む敵にも出会ってこなかった。
忘れているだけかもしれないが、少なくとも、今のぼくはそれを思い出せない。
でも、だからこそぼくは生きたいのだ。
永遠に、ぼくがぼくであるために。
ぼくから言葉を狩り取ろうとする、白骨化した巡礼者たちを、他ならぬぼく自身の言葉によって埋葬するために。

星の子

私の心は欠けている。魂に穴が開いている。
綺麗なもの、汚いものを探して、欠けた場所に嵌め込もうとしても、いつも上手くいかない。
欠けたもの、足りないものを探すために、私は旅に出た。
多くの町へ行き 多くの人と出会い 多くの話を聞いた。
だが、それでも私の心が満たされることはなかった。
欠けた穴を埋めるものは見つからなかった。
失望した私は、しかし見つけた。
その木を、美しい果実を。
いつでも成ったばかりのように瑞々しく、しかも甘く蕩けるようなかぐわしい匂い。
だが人々は私を呪った。呆れるほどに愚かなる無知蒙昧どもは、私を責め、罵った。
「よくも、よくもそんなことを。星の子を食べてしまうなんて」
牢獄の中で私は一人。しかし、心は希望と喜びに満ちていた。
もう大丈夫だ。迷うことはない。
私の求めていたものは、ついに見つかったのだから。

仙人掌

まるですべての音を吸い取ってしまったかのように、君は静かに凍っている。
まるで孵る時を待ちわびている卵のように、君は小さく呼吸している。
君は見てきたに違いない。地平線が夕陽を飲み込むところを。
君は聞いてきたに違いない。ナイフが喉元にすべりこむ音を。
君は知っていたに違いない。死者たちの秘密の囁きを。
それでも君は、何も言わずに待っている。
すべての時が満ちるのを待って、何もかもを抱えたままで、君は。
時間などないかのように。空間などないかのように。
喜びの歌が聞こえるその日を、今か今かと待ち続けているのだ。

誕生

遠くから流星群がやってくる。
うんざりした顔の月を横目に、星たちは勢いよく胡桃の殻にぶつかって、生まれたばかりの赤子に、祝福の言葉を伝えようとする。
赤子は、恐ろしくなって目をつむった。
星たちが弾けるそのたびに、彼女にかしずく生き物たちの、喝采の声が聞こえたからだ。
月の光がやさしい歌を歌って、その無垢で柔らかな耳をそっとふさいでやった。
あの光の筋が地上に届いたら、その時こそ彼女は、月の中でうずくまる狼の孤独を知るだろう。

傍観者

ひとりの娘をぼくは眺めている。
絹のようになめらかな背中、雲のようにやわらかな髪。
ひとりの娘をぼくは眺めている。
雪のように軽やかな指先、百日紅のようにたおやかな足のくびれ。
娘は裸だ。
止まった時間の中で、美しい胸の膨らみを眺め、ぼくは想像する。
娘の中を通りすぎていく自分、その身体を開いていく自分を。
ねじれた時計の針は、ゆっくりと進んでいく。
娘の微笑みをぼくは知らない。
ぼくはただ、止まった時間の中で永遠の命を得たその娘の身体を、誰かが開くのをそっと眺めている。

道端

轢き殺された獣のそばを車が通っていく。
咄嗟にハンドルを切って方向を変える様は、どこか道端に落ちた糞を避けるそれに似ていて、ぼくは無性に悲しくなった。
夜が、すべてを覆い隠してくれていればよかったのに。

また一つ世界に穴が開いた

不気味な音を立てて、またひとつ世界に穴が開いた。
止まれ、覗き込むなと教えてくれたのは、父だっただろうか。母だったかもしれない。
ぼくはもうそれを憶えていない。
穴には恐ろしいものが棲んでいる。
それは名前のない怪物であり、言葉を分解する生き物であり、かき集められた腐葉土であり、腐敗した宝石の匂いである。
止まれ、奥底に入り込むなと教えてくれたのは、祖父だっただろうか。祖母だったかもしれない。
いずれにせよ、ぼくはもうそれを思い出さない。
ぼくが穴を見詰めている時、きっと穴もぼくを見詰めている。
それは朽ち果てたイリジウムであり、回転する五つの黒点であり、放射線状にのびる蜘蛛の糸であり、甘い香りのする貝殻なのだ。
恐ろしい穴をぼくは塞いだ。
ぼくは黙った。音はもう止んでいる。そしてぼくはいなくなる。
またひとつ世界に穴が開いた。

二月の風

雲一つない二月の空の下、銀色の子供たちが歩いていく。
箱の中からそれを眺めていた僕は、なんだか無性に悲しくなってしまった。
虫たちが息を殺している前で、子供たちは無邪気にダンスを踊り始めた。
飛んだり、跳ねたり、くるくる回る彼らを、木漏れ日のスポットライトが明るく照らしている。
その時、ふいに風が呼ぶ声がして、子供たちは遠くへと駆け出して行ってしまった。
置いていかれた僕は、泣いていた虫の一匹をつまんで、そっと息を吹きかけた。

夜は海に似ている。その茫洋としたさま。ものの形を曖昧にする揺らめき。
目に見えないモノたちの囁き。
昼には大人しい顔をして、ひっそりとうずくまっている森も、夜には黒々として近づきがたい気配を纏う。
日が落ちてしまえば、大地は海原と同じである。
目を閉じてみれば、聞こえてくるのはさざなみの音。
生ぬるい風に、潮の香りさえ混じっているような、そんな気さえした。
夜には地球も夢を見るのだろう。
穏やかな眠りの中で、在りし日の己の姿を思い出しているのだろうか。

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