見出し画像

莢豌豆とスイトピー

ここ10日ばかり、1日おきぐらいに莢豌豆をたべている。これも不断草やアスパラとおなじく、実家の母が「もっていき」とよこしたものだ。野菜がなぜあまるのかは、何度もかかなくてもいいだろう。必要量を確保しようとすれば、家庭菜園の野菜はほぼまちがいなくあまる。その調整で野菜がもらえるのはありがたいとおもうべきだ。ただ、少々鬱陶しくはある。
というのも、莢豌豆、単純に「野菜を食べてる」という以上の感覚があんまりないからだ。たしかに季節をかんじる野菜ではある。いろどりとしてもわるくない。けれど、そこまでうまいものだろうか。母はおいしいとかんじるらしく、かならずつくる。いつもなら実取り豌豆とスナップ豌豆とあわせて三種類つくるので気がつかなかったのだけれど、去年一種類だけまくといってたのが、莢豌豆だった。ということは、スナップよりも莢豌豆が好きなんだろう。私だったらあまくてそのままかじってもうまいスナップのほうをえらぶ。母はそうではない。
もちろん、私も莢豌豆はまいたことがある。なんなら、ほかの種類ではなく莢豌豆だけをまいた年もあった。だがそれは、けっして莢豌豆を食べたいからではなかった。莢豌豆であっても、莢で収穫せずにおいておけば実は充実してくる。そうなると莢はかたくなるけれど、ふつうに豆として豆ごはんにしたり高野豆腐と炊いたりしてたのしめる。莢豌豆は実取りとおもえば早生だし、オマケ程度に食べるのなら莢で収穫してもかまわない。そういう余得をかんがえたら、品種として莢豌豆はわるくない。ただ、大量に莢豌豆を収穫して、いったいどうするよとおもう。
ここのところ、実家をおとずれるたびに「莢はもういいから、おいといて実にしてから収穫したらええやん」と母に提案するのだけれど、母は「それでもおいしそうだから」と収穫の手をやすめない。そして、「こんなに食べられないから」と、わたしてくる。どうにか料理して食べないわけにいかない。たとえば、鶏のひき肉があったので、炒めてから莢豌豆をくわえて軽く火をとおし、チーズで味をつけた。チーズは味が濃いので、私は調味料がわりによくつかう。このくみあわせは比較的よかったとおもう。

エンドウ2


父がいなくなって最初の種まきシーズンとなった秋、母は十坪あまりの菜園をまえに、「ひとりぶんだけやし、野菜はうんと減らして、半分は花をつくる」といった。最愛の夫の霊前にそなえるための花だ。もっとも、菊や百合のような仏花はこのまない。もっとかわいらしいのがいいという。さまざまなたねをかいこんだなかに、スイトピーがあった。スイトピーは順調に芽をだし、翌年の春から初夏にかけて、どっさりと花をさかせた。スイトピーは豌豆とおなじマメ科の植物だが、見た目以上に縁がとおいらしく、実は有毒なのだそうだ。たねも黒くてちいさい。たくさんさいた花からは、たくさんの実がおちた。こぼれだねから翌年分の株も芽がでたらしい。
母の畑はそれでなくてもあたたかい大阪南部でも、とくに日あたりのいい場所にある。この冬のことだけれど、「豌豆だとおもってまいたたねにスイトピーがまじっている気がする」と、不安げな顔で母が相談してきた。うっかり毒を食べてしまったら、とおもったらしい。私は植物学者ではないけれど、豌豆とスイトピーのちがいぐらいわかるだろうとおもって畑にでてみた。たしかに豌豆にしてはずいぶんとがっしりしている。けれど、それはよくこえた日あたりのいい畑で霜の心配もなくそだっているからなのだろう。いろいろしらべてみても、スイトピーらしいところはない。母にそうつたえると、「まあ、身ができてみたらわかるやろね」と、すこし安心したようだった。スイトピーの莢は、こまかい毛がびっしりとはえている。まちがえて食べる心配はないと、私もうけあった。
そしていま、やっぱりあの株はスイトピーではなく、莢豌豆だった。けれど、これほど大量の莢豌豆をまえにすると、「半分くらい、まちがえてスイトピーだったほうがよかったかもなあ」とおもったりもする。ぜいたくなことかもしれないが、中途半端にとれすぎる野菜はこまる。もっとおおければひとにもあげられるし、下ゆでして冷凍しておこうかという気にもなる。そこまででもないから、とにかくくふうして、料理をつづける。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?