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自炊をする理由

自炊をしようというひとは、おおくの場合、目的をもってはじめる。その目的は十人十色、百人百様、それぞれだ。けれど、おおまかにわけたら「安価」「美味」「健康」のどれかをもとめているようにおもえる。そして、ここははっきり切りわけておかないと、ツッコまれることになる。
たとえば、「近所のひとに野菜をたくさんわけてもらったんで、今日のおかずはタダ!」みたいに経済性を強調すると、「そんなこといったって昨日の買い物で1万円使ったとかいってたじゃない」みたいに矛盾を指摘される。「いや、だってごちそうをたべたかったんだから」と、至極まっとうなことをこたえても、「じゃ、自炊なら安くあがるってウソだよね」となる。「家庭菜園で健康料理!」みたいなことを主張すると、「じゃあお昼にたべたカップラーメンはなに? 草ひきがいそがしいからって、それ、本末転倒じゃ?」といわれるだろう。
そりゃ、人間、「今日はうまいものができたなあ」とおもったら「自分でつくる料理は外食なんかくらべものにならない」というだろうし、「野菜たっぷりでヘルシーだなあ」とおもったら「コンビニ弁当で野菜なんてとれないよね」と自炊の優位性をときたくなる。いそがしい日がつづいて自炊ができず、ふと財布をみたらずいぶんとかるくなっているのに気づいたときには、「やっぱり自炊が財布にやさしいよ」とおもうだろう。その場その場での感慨にウソはない。けれど、たべることは毎日の反復だ。1年をとおしてみて、計算してみたらそれほど安くもなく、うまいものがつくれたのはかぞえるほどで、むしろ自分のワンパターンにあきあきしていて、そしてなんだか体調もいまひとつだったりしたら、「ぜんぶウソだ!」とさけびたくなるかもしれない。
もしもなんらかの目的をもって自炊をするのであれば、自炊のメリットとしてあげられることをすべておいかけてはならない。すくなくとも、数ヶ月、数年単位で目的が達成できることをめざすのなら、経済、味覚、健康の3つの要素のうち、目的をひとつにしぼりこむことだ。そうすれば、まずまちがいなく目的は達成できる。

たとえば、「安い」ことだけを目的にしたら、自炊は外食や中食(弁当などの完成品を買ってきてたべること)にくらべて圧倒的に食費をさげることができる。もちろん、必要なカロリーはしっかりとることを前提にしてのことだ。熱量がなければ、ひとはいきていけない。そして熱量としての栄養価は、家庭科の教科書でもみればすぐにわかる。
そういう目線で、スーパーの売り場をながめてみよう。100円あたりの金額に換算してもっともやすいものはなにか。マニアックな話をしはじめたらいろいろ余分なことはあるのだけれど、ごく安直に商品棚をしらべたら、安いのはうどんでもパスタでも、ましてカップ麺でもなく、その原料である小麦粉だとわかるだろう(バルクならスターチ類でもっとやすいのがあるが、そういうマニアックな話はしない)。100円あたり3000kcalぐらいある。砂糖がそれについで安く、100円あたり2000kcalぐらいだろうか。脂質が必要なら、植物油のやすいのをさがせば100円あたり1200kcalぐらいでかえるだろう。タンパク質がほしければ卵1個には6g強のタンパク質が含まれるらしいから100円あたり30〜40gとれることになる。鶏胸肉で100gあたり20gぐらいのタンパク質らしいからやはり100円あたり20〜50gとれる(鶏肉のほうが価格の振れ幅がおおきい)。これらをくみあわせれば、1日に必要な熱量とタンパク質を合計しても、原材料費は150〜200円ですむ計算になる。
じゃあ、小麦粉350gと砂糖50gと植物油30gと卵5個(これでだいたい熱量とタンパク質は充足する)でなにができるのかといえば、ホットケーキができる。油をふやして小麦粉をへらせばドーナツができる。オーブンがあればクッキーやケーキがやける。
いや、さすがにそれでは繊維質が不足するではないか、ということなら、予算を1日300円にふやせば大根、もやし、キャベツ、白菜、玉ねぎ、じゃがいもなんかの安くて量のある野菜をここにくわえることができる。醤油や味噌といったもっとも安価な調味料を用意することもできる。ケチャップやマヨネーズも、やすいものはやすい。小麦粉でうどんを打つほどの根性がなくても、すいとんぐらいはできるだろう。1日あたりあと数十円ふやせば、小麦粉を米にかえることもできる。日本人ならやっぱりお米というひともおおかろう。そこまでくれば、最低限の味、最低限の健康はまもれて、そして外食とは比較にならないほどの安価で自炊が可能になる。

ただし、「安さ」にフォーカスした上記の方法だと、味と健康は、最低限をまもっているにすぎない。味にこだわりはじめたら、たちまちコストははねあがる。たとえば、ステーキがたべたいとする。外食すれば5000円するようなステーキでも、スーパーにいったら2000円もせずうっている。やすくあがったとホクホク顔でいられるのは、最初のうちだけだ。すぐに、自分で焼いたステーキと店でたべるステーキの味のちがいに気づくだろう。焼きかたがちがうからとフライパンを新調しても、それはまあ設備投資で一時のものだから計算にいれないとしよう。スパイスがちがうとか、油がちがうとか、こだわりはじめたら素材の出費もふえていく。いや、肉だけたべるからものたりないので、やっぱりつけあわせも重要じゃないかとなると、そちらの研究もはじまる。ふと気がつくと、「こんな手間をかけるならレストランにいったほうがいいじゃない」となるか、あるいは、「手間をかけてこそのこだわりの逸品!」と胸をはるようになるか。いずれにせよ、「安さ」は度外視されることになる。

「健康」にこだわっても、「安さ」は追求できない。「健康」はそのひとの価値観だ。たとえば戦争を経験した私の父親の世代のかんがえる健康な食事はなにをさておいてもしっかりと量をたべることだった。世代としての飢えの経験があたえる影響はちいさくない。あくまで感覚だが、十年時代がちがうと「栄養バランス」を気にする世代になる。公害がかしましくいわれた1970年代にそだったひとにとっての健康は、「無農薬」だろう。価値観の多様化した現代では、一方にヴィーガンがいたり、グルテンフリー派がいたり、低糖質主義者がいたりと、健康観もダイバーシティーにあふれている。そんなふうに、こだわるポイントがちがってくるのだが、いずれにせよ、こだわりを実現するのは現代資本主義のもとでは経済力になる。
そして、「健康」をもとめはじめると、客観的にみたら味わいは二の次になる。やってる本人は「おいしい」というのだけれど、麸の唐揚げと鶏の唐揚のどっちがおいしいかといえば、やっぱり後者だろう。グルテンフリーでしっかりしたパンは焼けないし、低糖質麺よりはふつうの素麺のほうがのどごしがいい。いや、味覚は部分的には大脳皮質がつくりだす幻だから、そこにどっぷりはまっているひとにはそれで納得なのだろうけれど。

ということで、「安さ」「味」「健康」は、おおくの場合、たがいに矛盾する。いずれも自炊によって容易に達成できるものだから、「自炊は経済的だ」「自炊してこそほんとうにうまいものがたべられる」「健康のためには自炊すべきだ」という命題は、いずれも正しい。けれど、「経済的でおいしく、健康にもいい」自炊なんて、針の穴をとおすよりむずかしい。二兎追うものは一兎も得ずとのたとえのように、すべての要素を目的にしてしまうと、たいてい自炊は失敗する。
だから、もしも目的をもって自炊するなら、最初はどれかひとつを確実に達成することをめざすべきだ。裕福なひとなら「健康」をめざすのが手っとりばやいし、手先が器用なひとで味覚に自信があるなら「味」をめざせば割とかんたんに目的は達成できる。お金がなければ、まずは「安さ」をめざすのがいいだろう。そのときに、グルメや健康オタクの声をきいてはならない。それは失敗への道だから。
そして、ある程度、「ああ、これで目的どおりに自炊をまわしていくことができるようになったな」とおもえるようになったら、そこに第二の目的をくわえたらいいだろう。互いに矛盾するのだけれど、2つまでなら、同時に達成することも不可能ではない。工夫は必要になるが、そういった工夫によろこびをかんじられるひとであれば、ぜひここは挑戦すべきだろう。
そして2つがうまくできるようになったら、いよいよ不可能を可能にすべく挑戦してもいいのかもしれない。「針の穴をとおすよりむずかしい」とかいたけれど、なに、ラクダをとおすのではなく糸をとおすなら、できないことではないのだ。老眼になると突然むずかしくなってこの世の絶望を一身に背負ってしまうのだけれど、いや、そういう話じゃなかった。

ただ、じゃあ、あんたはどういう目的で料理をしているんだといわれたら、私にはこたえられなくなる。たしかに家をでて自活をはじめたころにはなによりも安くあげることが重要だった。健康マニアのひととくらしていたときには、健康に気をつかう料理にもこだわった。家族のために料理していたときには、やっぱり味は無視できない要因だった。けれど、それらはすべてすぎさった。
そうやってかんがえてみると、結局のところ、私はなにか目的があって料理をしているのではない、ということに気がつく。なにかのために料理をするのではなく、ただ、そういうものだからと料理をする。
高校生のころ、自分がなんのために生きているのか、それが最大の気がかりだった。毎日がしんどいのに、なにか生きる意味というものがなければ、こんなしんどさをくりかえすなんてたえられないとおもった。しんどいというよりも、めんどくさい、だったかもしれない。とにかく、若い私は、生きる意味がなければ生きられないとおもった。
けれど、数十年がたったいま、生きることに意味なんてないんだと、腑に落ちている。あきらめたとか納得したとかではなく、「あ、そういうもんだ」とおもえるようになっている。意味なんてなくても毎日をくりかえすのだし、そういうふうにして生きて、死んでいくのが自分なんだなあとおもう。
それとおなじで、料理をすることに無理に意味をあたえようという気もなくなっている。「安いから自炊」とか「自分で料理したものはうまい」とか「自炊で健康」みたいなことはどうでもよくなって、ただ、そういうもんだからと、キッチンにたつ。
それを老化というのなら、年をとるのもわるくない。そうおもえる年代に、どうやら私もさしかかっているらしい。

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