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不断草の日々

ここのところ、毎日のように不断草を食べている。いろとりどりの不断草はサラダにしても見栄えがいいし、しっかりゆでこぼしてアクをぬいたら菠薐草ににた味がしておひたしになる。竹輪やごぼ天のような練り製品、油揚げや鶏肉と煮物にしてもいい。菜っ葉としては使い勝手はわるくない。ただ、そこまでうまいかといえば、アブラナ科の菜っ葉ほどの汎用性はないし、菠薐草のやわらかさもない。レタスのような歯ざわりもなければ、三葉や芹のようなさわやかさもない。どこまでいっても「そこそこ」の味でしかないのが不断草だ。
つくりやすいのはうけあいだ。暑さにつよく、虫もつきにくい。春から秋まで、放置しておいても勝手にどんどんと葉をひろげていく。初心者向け、ズボラ向けの野菜の筆頭といってもいい。ホームセンターなんかにもふつうにたねがあるから、むかし、家庭菜園をはじめたばかりの私もほかの野菜のたねとあわせてかった。なにもしらなかったけれど、順調に芽をだして、そだった。雑草と菜っ葉のみわけもつかない素人だったけれど、それでもどうにか食べるところまでこぎつけた。

いま台所にあふれている不断草は、実家の母がつくったものだ。母は家庭菜園のベテランだ。私が小学校の高学年のころに自分で食べるための野菜をつくりはじめ、すぐに熱中した。10年たたないうちに100種類をこえる野菜をつくった。おそらくそのころに不断草も一度や二度はつくったのではないかとおもう。ただ、その後はながくつくらなかった。ほかにもっと味のいいものをいろいろとつくってきたからだろう。
いま、母の畑にある不断草は、2年まえの初秋に私がすすめたものだ。1年あまりの入院の末に父が死に、看病のためあまり手をいれられなかった畑をまえに、母は「なにをまこうか」と思案していた。ひとり暮らしになるので、重量野菜はいらない。父の好物だからと例年どっさりつくる蚕豆もすこしでいい。大根と葱と小松菜と、あとなにをまこうかというところで、「不断草はどう?」と、私が提案してみた。たねをまいたのはその年だけで、以後、こぼれだねから毎年、あたらしい苗がそだっている。
母にとって、不断草は「旨い菜」だ。子どものころにおぼえた名前がいつまでもついてまわる。ゴーヤはレイシだし、隠元豆はお多福だ。標準的な名前が唯一ただしい名前ではないので別段かまわないのだけれど、母のほかにつかっているひとがいないとやっぱり混乱する。もっとも不断草には別名が多く、チャードやシルバービート、リーフビートなどの外来語はもちろん、常菜、いつも菜といった和名、さらには琉球語のンスナバーといったよびかたもあるそうだ。菠薐草やビートのなかまで、葉っぱを食べるのだけれど、少しアクがつよい。なので、ゆでこぼしをするほうが食べやすい。ゆでたあとの水さらしも私はよくするようになった。母はこういうのはこのまない。ゆでるのも短時間、そしてできるだけはやくさますために、風にさらす。菜っ葉類はそのほうがビタミンがうしなわれないと若いころにきいてから一律に実践しているのだけれど、アクがおおい場合にはどうなのかなあと私はおもっている。おもっても、母に意見するようなことはしない。母は母なりに納得して料理をつくっているのだし、しっかりとおいしいものをつくってきているのだから。

おそらくいっしょにくらしていれば、母と私はぶつかることもおおいのだろう。21歳で親元をはなれてからは、実家にはなるべく長期に滞在しないようにしてきた。もともと親子仲がわるかったわけではない。むしろ、ひとつうえの兄のほうが母とはぶつかることがおおかった。高校生のころなど、私はどちらかといえば仲裁者の役割をひきうけていた。兄がとおくの大学にすすみ、バランスがくずれた。居心地のいい実家ぐらしが苦痛になっていった。奇妙だが、そういうことはある。
家をはなれるときにはなるべくとおくにとおもった。東京をえらんだのはそういう理由だ。東京で10年すごして、居心地がよくなってくると、またそこが苦痛になった。そこから居所を転々とし、やがて丹波の田舎におちついた。おちついて時間がたつうち結婚し、子どもができた。そうなってみるといろいろ生活上の変化があり、結局、田舎にうつって10年でそれまで縁もゆかりもなかった神戸にうつってきた。田舎暮らしは居心地がよかったから、やっぱり私はそういう場所にはながくいられない性質なのかもしれない。
神戸まできたら実家もそれほどとおくない。けれど、わたしはめったにそちらに足をむけなかった。それが4年前、父から依頼があった。費用は負担するから週1回、くるようにと。「ああ、くるものがきたな」と、私はふたつ返事で了承した。そこから毎週月曜日、実家通いがはじまった。

あれからいろいろなことがあったが、親が高齢になっても週1回の訪問ですんでいるのはラッキーなことなのだろう。80歳をこえても健康だから、この程度ですんでいる。力仕事をやっていた父はもういないし、母の体力もおちている。だからたがやして畝をたてるのは私の仕事になっている。杭をたてたりふかく根のはった株をひきぬいたりするのも、私だ。肥料や苗の買い出しも、私がする。けれど、そのほかの家庭菜園のほとんどの作業は、あいかわらず母がする。そして、帰るたびに大量の野菜を私によこす。いらないといっても、「まあ、もっていき」とわたしてくる。「こんなようさん、たべられへん。もってって」と。
「おおすぎるんやったら、そんなにつくらなかったらええやんか」と私も文句をいうのだけれど、畑でとれるものがそんなうまくコントロールできるものでないことは、私もしっている。必要なだけピッタリつくるなんて、自然相手にできるわけがない。不足しないようにとおもえばかならずあまる。癪にさわるのは「あんたのぶんもいるやろ」と、おためごかしにいうことだ。いや、いらないからというと、渋々ひきさがるぐらいには、ようやく口論もおちついてきた。とはいえ、それでなにがかわるわけではない。あいかわらず、実家にかえると大量の野菜が手にはいる。ここしばらくは不断草だ。

いろいろためしたけれど、不断草ならこれ、という決め手になる料理はない。どこまでいっても、そこそこな野菜だ。そのかわり、どんな料理にでもなる、といえばなる。たとえば冷蔵庫で焼き鯖があまっていた日、鯖の身をほぐして和えてみた。酢の物ともいえるし、サラダのようでもある。中途半端であるが、これがなかなかうまかった。

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名前もつけにくい料理で、いかにもつかみどころがない。私の人生に、どこかにているかもしれない。

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