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味噌にこだわりはない

高齢の母の買いものは、リストをつくってもらって私がいく。こまかな指定は基本的にはないのだけれど、たとえばチョコレートやクラッカーなど嗜好品の銘柄はきまっている。豆腐や納豆は銘柄の指定はないのだけれど、パッケージひとつがおおきくないほうがいいので、だいたいおなじ銘柄をかうことになる。牛乳や蒲鉾は、「あれがおいしかったから」といつもいうので、それをえらんでかうようにしている。
意外なのが味噌だ。数年前にたまたまかったのが気にいって、ある特定の銘柄の味噌をそれからずっと指定してくる。味噌はそうしょっちゅうかうわけではないのだけれど、昨日はたまたまそれがリストにあった。うっている場所はわかっているので、なんの問題もない。
母のわるいくせは、自分の感覚にすぐに同意をもとめることだ。母がその味噌をすきなのは、べつにそれでかまわない。たしかにわるい味噌ではないとおもう。ただ、私はそこまで味噌にこだわりがあるほうではない。うまいかまずいかといわれたら、たいていの味噌にたいしては「うまい」とこたえるだろう。だから、母が「このお味噌、おいしいね」と同意をもとめても、「まあ、そうやね」と、うなずくことになる。かまわない。そりゃ、ふつう味噌はうまいよね。
ところが、息子としてながいこと母とつきあってきていまだに違和感がぬぐえないのは、そこからさきだ。
「こないだきたとき、この味噌がきれてたんで、ふるい味噌がのこってたのをまぜたんだけど、おいしくなかったね」
「そうやったかなあ。じゅうぶんおいしかったとおもうけどなあ」
「へんな味やったよ。あんたもへんな顔、してた」
いや、それはちがう。味噌汁は、ごくあたりまえに味噌汁の味がした。もしも私がへんな顔をしたのだとしたら、それはべつの事情だ。そういえば、たしかその日も、「お味噌汁、ちょっとへんでしょ」とか、母はいっていた。私がへんな顔をしたのは、べつになんということもないふつうの味の味噌汁を「へんだ」といった母の言葉が腑に落ちなかったからなのかもしれない。
けれど、母は、つねに自分の感覚を他人に投影してしまう。そして、自分の感覚に自信をふかめ、それがただしいということを前提に、行動をきめる。なので、おそらく母がその特定の味噌をえらぶ理由の何割かは、たまにやってくる息子のためであるわけだ。「息子もこれがすきだから、この味噌をつかいましょう」ぐらいにおもっているふしがある。いや、かってにきめないでくれよとおもう。
さらにたちがわるいのは、母がなにをきめてかかっているのか、こっちからは予想ができないことだ。だから用心ぶかくなる。うっかりなにか特定のおかずをたくさん食べたりしたら、「あんた、これがすきでしょ」と、次回からどんどんだされる可能性がたかい。母は実によく観察している。文脈さえはずさなければそれは「気がきく」として評価されるのだろう。けれど、息子相手だと、まずまちがいなく、はずしてくる。子どものころにはそういうからくりはわからなかったので単にこのみがあわないのだとおもっていたけれど、母は実は私にあわせようとしていたのだろうなと、いまになればおもう。

自分がつかう味噌は、ほぼ、ふるい友だちからもらったものだ。彼女は手づくり味噌を販売している。大量に味噌を仕込むのだけれど、味噌樽の表面のほうの数センチは色がかわるので、売りものにしにくい。あるいは、保存しすぎた味噌なんかも売りにくい。実のところ、3年保存した味噌は風味が独特で、ほしいひとならむしろ割高でもかうだろう。ただ、需要はすくない。そういった味噌を、物々交換でくれる。もうかなりまえから、そういう関係がつづいている。この味噌、なかなかおいしい。
とはいえ、私の「おいしい」は、あてにならない。たいていのものはおいしくかんじてしまう。便利ではあるけれど、こだわってものをつくっているひとにとっては、すこしがっかりかもしれない。あるいは、観察をもとに気をくばるひとにとっても。なにしろ、「おいしい」といっていた記憶にもとづいておなじものをだしても、よろこばれるとはかぎらないのだから。

みそ


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