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はじめに

料理の本をかきたいとおもってきた。レシピ本ではない。だいたいが、私はレシピをうまくつかいこなせないひとだ。その理由はいくつかある。
 ・ レシピをよみながら手先をつかう並行作業ができない
 ・ かといってレシピを暗記する能力もない
 ・ レシピどおりにいかないこまかいところが気になる
 ・ そのくせに、理解できないところはめんどくさくなってとばしてしまう
レシピをみて料理がきちんとできたためしがない。だからレシピ本をみていると、だんだんとみじめになってくる。いわゆる定型発達でない自分が残念になってくる。だから、そういうのにはあまり興味はない。
レシピ集ではないけれど、料理が重要な要素になっている本はある。たとえばノーラ・エフロンのHeartburnという小説やCrazy Saladというエッセイ集。どちらもストーリーの中にレシピがうまくとけこんでいる。ジョン・アービングの小説のいくつかにも、料理のシーンがえがかれている。若いころに兄の影響でよくよんだ山岳文学にも料理が重要な要素になっているシーンがいくつもあった。これは、食べることが活動にくみこまれた登山というものの性質から、当然といえば当然なのだろう。そこまでの作品でなくていい。自分も料理をあつかう本をかいてみたいとおもってきた。食うことは生命をささえる。生命とはすなわちlifeであり、lifeとは人生である。人生をかくことができたら、それはそれですばらしいではないか。
けっしてプロの物書きではないけれど、私はこれまでずいぶんといろんなものをかいてきた。そのなかで、もっとも料理に近かったのは、「ウチの畑の野菜名鑑」というエッセイ集だろう。20年ぐらい前に自費で100部だけ印刷したこの本は、当時やっていた家庭菜園の野菜をテーマにしたものだった。野菜についてかけば、当然、その料理にも話がおよぶ。漬物とか煮物を中心に、いろいろな料理のこともかいたように記憶している。もう手もとにもないし、古いQuarkXpressの組版データをよむ方法もないので、いまさら重版もできない。
10年ぐらい前には、今度はストレートに料理をネタにしたエッセイをかいた。ふだんたべている料理を1品とりあげ、そこから自伝的なことをかいていくというものだ。自伝的なことをかくと、最終的には思想的な話になる。人生は思想をかたちづくっていくからだ。200ページをこえるかなり分厚い原稿になった。気にいってくれたひともいたものの、あんまりナマで思想をだしたのが鼻につく部分もあったせいだろうか、結局お蔵いりとなった。かくことによっていろいろとみえてきたこともあったので、かく機会がえられたことはよかったとおもっている。結果がついてこなかったのはもう実力だとおもってあきらめるしかない。
今回、このnoteで料理をネタにかこうとおもっているのは、もうすこし軽いおもいで話だったり随想だったりする。前回とちがうのは、前回のテーマの重要な一部が「家族」だったのにたいして、今回は「家族以後」になることだろうか。「ひとりの食卓」だ。息子が成長するとともに、暮らしのようすがかわってきた。もともとそうだったひとり暮らしへの回帰である。もとの木阿弥っぽい。とはいえ、けしてほんとうの意味でもとにもどったわけではない。私はそのあいだにとしをとり、ある部分はおとろえ、ある部分は成長した。みえるものもすこしずつかわっている。そういう変化をふまえて、若いころにはかけなかった「ひとり」をかいてみたい。
そんなふうにおもうようになったひとつの要因は、5年ほどまえにはじめたブログの存在だ。それまでも雑多な文はあちこちにかいてきたのだけれど、2000年代なかばにブログサービスがはじまってからは、ブログをかくことがおおくなった。ブログはテーマごとにことなるものをかいていたのだけれど、その結果として、気がついたら技術系のことと業務のこと以外に自由にかける場がなくなっていた。ブログ以外にかく場がなくなってしまったのもおおきい。いつのまにやら、さえないブロガーになってしまっていた。その割に、自縄自縛的にかきたいこともかけないようになっていた(設定した枠の外にはみ出したくないのはいかにも非定型発達的だ)。それではおもしろくないと、完全フリーなかたちであたらしいブログをかきはじめた。それがおよそ5年前のことだ。テーマをきめないことでおもいもかけないものが自分のなかからでてきた。いきあたりばったりのなかで、あたらしいテーマがうまれてきた。そうやって記事をかさねるなかで、ふたたび、枠をきり、テーマをおいかけてかきはじめたくなった。枠をはっきりさせるためには、ブログは別立てにしたほうがいい。アクセスとか読者数とかかんがえたらおなじブログにカテゴリをふやすほうがいいのだけど、場をかえてためしてみるのもいいかなとおもうようになった。
もうひとつの要因は、いま、食べものと農にかんする本の企画がある出版社をとおして進行中だということだ。いままでもさんざんいろんな企画をつぶしてきたので確実なことはまだなにもいえないのだけれど、うまくすれば1年ぐらいのあいだに食べることを中心にした本ができる。私も著者の一人として参加する。その本ができるころにあわせてこのブログの記事がたまっていけば、プロモーション的にも意味があるだろう。さもしいようではあるが、やっぱり本は売れてほしい。
補助的な要因として、1年ほどまえからひとりの食事を写真に記録してきたことがある。基本的に夕食だけの記録だし、いそがしい夜はぬけている。ひとりの食事がテーマなので、あえて息子がかえってきた日や来客のあった日の料理は記録していない。それでもかなりの点数の写真がたまった。文章だけでは味気ないので、そういう写真もくみこんでいくことができる。これはあたらしい場であたらしいことをはじめるのにぴったりではないか。

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たとえばなんということもないねぎの写真だけれど、庭のプランターからとれたねぎが食卓にのぼる。そういう過程をかきながら、ひとりの人間がうかびあがればおもしろいのではないだろうか。

どんなふうに進行していくのか、まだ雲をつかむようでもある。それでもあたらしくはじめることに心は高揚する。たのしめるといいな、とおもう。

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