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またも蚕豆の季節

むかし丹波で畑をやっていたときの感覚からすれば、豌豆は五月連休のころから二十日ほど、それといれかわるように蚕豆なのだけれど、大阪のほうはだいぶとはやい。母親の畑では、もう豌豆はおわったし、蚕豆も終盤だ。連作をさけるために今年は豆のあとに夏野菜ときめているのだけれど、苗をかうのに出おくれると売れ残りしかないから、なすびもトマトも一週間以上まえにかってきた。おおきめのポットにうつしかえて、出番をまっている。
母はそわそわして、顔をみるたびに「豆はもうぬこう」という。いや、まだ待てる、そのためにおおきなポットにうつしたんじゃないかといっても、すぐにまた、心配をはじめる。年をとってくるとあたらしいことがおぼえられなくなるから、相談事をしてもすぐにわすれる。めんどくさいけれど、そのたびにいちいち、「夏野菜は豆のあとにきめたじゃない」と確認する。すると、「じゃあ、はやくぬこう」とあせりはじめる。
母は、むかしから、わりと見切るのがはやい。わたしが未練たらしくいつまでも「もうちょっと」とねばるのと対照的だ。だから、つぎに母の畑にいったら、きっと豆はきれいにぬかれているだろう。いま、実家には中四日ごとに顔をだすようにしている。そのあいだは母はすきなようにやってる。まあ、それでいい。畑に主はふたりいらない。
蚕豆は、年に一度はたべたいけれど、そこまでたくさんたべたいわけでもない。今年はたったの3株しかうえなかったけれど、それで十分だという気もする。さっとゆでるだけで、塩もなにもあじつけなしで、うまい。母親は、それでは不満なようだ。健康のために塩分を気にして、なにかといえば「からいね」と口癖のようにいうわりに、塩味のない野菜はこのまない。奇妙なものだなあとおもう。毎日顔をつきあわせていたらきっと憂鬱になるだろうが、こうやってあいだをおいて観察していると、それはそれでいろいろな発見がある。しばらくこういうくらしがつづくのだろうな。

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