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豌豆の季節には、はやいのだけれど

実家にいった折に、豌豆をもらってきた。品種としては絹莢豌豆なのだけれど、おいておけば豆がはいる。それなりにしっかりした豆になるので、むりに実取り豌豆をまかなくても絹莢豌豆だけで莢と実の両方たのしむことは可能だ。
それにしても、この時期の豌豆ははやい。私の感覚では、5月の連休はまだ莢豌豆で、やがてスナップがおいしくなり、実取り豌豆は5月の半ばから末にかけてだ。5月の末から蚕豆の季節になり、6月の梅雨入り前にどちらも片づけてしまう。私が家庭菜園を本格的にやっていたのは丹波地方でのことなので、これは瀬戸内気候の大阪や兵庫南部とはすこしちがう。とはいえ、おなじ近畿地方、ちがっても一週間から十日までだろう。ところが、母の畑は、感覚的には二十日以上、ときには一ヶ月もはやい。温暖な大阪南部ということもおおきいのだろうが、近隣の親戚の畑とくらべても十日ははやいのだから、ずいぶんだ。和歌山の産地なんかだったら、たしかにもっとはやい。3月に露地で豌豆の花がさいているのをみたこともある。それでも母の畑で今年最初に豌豆の花をみたのは1月半ばだった。やっぱりはやい。
なぜそんなにはやいのかといえば、それは母の畑が建物の屋上にあるからなのかもしれない。単純に大阪があたたかいだけではない。周辺にくらべてもはやくにみのるのは、場所のせいなのだろう。つまり、屋上だ。
父はもともと土着の農家の末っ子だ。末っ子なので代々の田畑はうけつがなかったが、父の母、つまり私の祖母がかわいい末っ子のためにと飯米ぐらいはどうにかなる田んぼをあたえてくれた。その田んぼは私が小学校の高学年になるころに転作で畑となった。その畑で、父と母はせっせと自家消費用の野菜をつくってくれた。家からあるいていくにはすこしとおいところの畑だったが、母は毎日のように収穫にかよった。
年月がたち、地域で水害があったりして家をたてかえることになったとき、母は野菜用の畑がほしいといった。晩飯のおかずにちょっとほしいようなときに、とおくの畑までとりにいくのは不便なのだ。けれど、家の敷地はそこまでひろくない。ならばと父は、屋上に土をいれて屋根のうえに家庭菜園をのせた家をつくった。それがもう三十年ちかくもまえになる。
それ以来、母は自分のすきな野菜は屋上でつくる。もとの畑はだんだんとせまくなり、それでも最初のうちは重量野菜なんかを父がつくっていたが、やがて手のかからない果樹がしめる割合がふえていった。父の晩年にはすっかり果樹園になり、それも父が死んでてばなすことになった。

屋上の菜園は、日あたりがいい。周囲にさえぎるものがないから、夜明けから日没まで、光のたえることがない。そして、地面からはなれているせいで冷気がたまらないのか、意外にひえない。地面付近と屋上と、常識的にかんがえたらふきっさらしの屋上のほうがひえるようにおもうのだけれど、実際には屋上のほうがあたたかいようだ。それは、居住空間が土の下にあるせいで排熱があるからなのかもしれない。霜はまずおりないし、なによりもあらゆる野菜のそだちがはやい。
そんなふうに分析したら、きっと母は心外だとおもうだろう。よくそだつのは世話がいいからだと、きっと母はおもうだろう。苗は台所のあたたかいところでおこすし、よくたがやした畑には肥料をたっぷりあたえている。そして水やりをかかさない。そこまで手をかけているからよくそだつのだといわれれば、そうかもしれないとうなづくしかない。
なんにしてもたいしたものだなあとおもう。そうおもうのだけれど、私は母のやりかたはうけつがなかった。母にいわれるままにたがやしたり肥料をいれたりするのは、もうかなりまえから私の役割になっている。父の体力がおとろえはじめた五、六年ほどもまえからだろうか。母がどんなふうに畑の準備をしてほしいのかはだいたい理解できるようになってきたが、いまだになじめない。それでりっぱな野菜ができているのだからひとつの正解であるにはちがいないけれど、自分だったらそうはやらないだろうなとおもう。
それでも、もらった野菜は、ありがたくいただく。旬の野菜がうまいというけれど、やっぱり出はじめのころの野菜は格別だ。豌豆は、シンプルに豌豆飯にするのがいいだろう。

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