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雑草となった山芋

長芋とか捏ね芋とかいってうられているのは山芋のなかまで、遺伝子的にはそれほどちがいがないのだそうだ。自然薯としてうられているのは薯蕷であり、すこし別系統になるらしい。これらをふくんでさらに多様な品種までつつみこんだ総称を大薯というらしく、そのダイジョについての研究を大学院でやっていたという若いひとと話したことがある。
ダイジョ類の再生能力はものすごい。彼の研究室ではアジアの各地のさまざまなダイジョを培養していたそうだが、わずか1センチ角の芋の切片があれば再生するのだそうだ。そんな話をきいて、
「ですよね。うちの畑、かってに山芋がはえてくるんだけど、あれって長芋の皮からそだってるんですよ。うち、生ごみは畑に返してるから、おぼえのないのがどんどんはえてくる」
みたいなことをいった。それはよかったのだけれど、
「1センチどころか、できるだけうすくかわをむいてるのに、そこからどんどん芽をだしてくる。生命力がすごいね」
といったあたりで、反論がかえってきた。
「それはぶあつく皮をむいているからですよ。実験じゃ、厚さ1センチないと再生しませんよ」
というのだ。
「いや、そんなはずはない。なんだったらうちの畑にきてみればいい」
と反駁したのだけれど、彼はゆずらなかった。決着はついていない。
とはいえ、畑にかってに山芋がはえてくるのは事実だ。そりゃ、むきすてた皮に1センチの厚さのところが絶対になかったかといわれれば、さすがにそこまでうけあえない。そしていったん雑草になれば、むかごというつよい繁殖方法が山芋にはあるので、年々ふえるだろう。ではあっても、「厚さ1センチが最低でも必要」というのは、あんまりにも植物をなめすぎているのではなかろうか。おそらく出芽のための栄養分の量が「1センチ」にはこめられているのだろうし、そうおもえば、サイコロ型なら1センチ角は必要かもしれない。けれど、全体の栄養量ということなら、幅ひろくむかれた皮であってもたりるのではなかろうか。

生ごみを畑にかえすのは、おおくのひとが家庭菜園でやっていることだ。実家の母もやっている。ただ、方法は私とはまったくちがう。母は、作物の根もとや畝のあいだにおく。有機物の分解ということでいえばそちらのほうが土にたいする負担がちいさいだろう。自然な方法といってもいい。私は大型プランターをつかう。台所からでた生ごみや庭でひいた草や落ち葉をプランターにいれたら、うすく土をかける。そうやってサンドイッチ状にしていき、プランターがいっぱいになったら土をたして、菜っ葉をまいたり葱をうえる。1作つくったら、さらに土をたして2作めをつくることもある。有機物が土にかえったなとおもったら、プランターをひっくりかえして土を畑にもどし、最初のサイクルにかえる。つまり、堆肥をつくりながら、回転させていることになる。
理屈からいえば、このやりかたはおかしい。生ごみや枯れ草をうめただけのプランターでは生有機物が分解していくときに根の成長をさまたげるだろう。だから、堆肥をつくるなら熟成するまではちゃんとつんでおいて、完熟してから畑にいれるべきだ。有機物が未分解のプランターにたねをまいたり苗をうえるのは、絶対によくない。
それをしっているのに、私はあえてそうしている。その理由は、単純にその場所があいているからだ。せまい庭の空間を有効につかうために、プランターがいっぱいになったらすぐにたねをまくか苗をうえる。ようするに、貧乏性だ。
この方法、もともとはちいさなベランダしかないアパート暮らしのころにあみだしたものだ。都会では土さえ金をださなければ手にはいらない。だからかぎられた土をだいじにしようと、生ごみを堆肥化することにした。生ごみはすぐにいやなにおいをはなつようになるのだけれど、数センチの土でおおえばくさくない。土の脱臭力、分解力はすごいなと実感した。プランターをいくつかならべて、ローテンションで生ごみをくわせていけば、かぎられた空間、かぎられた土で、すこしの野菜は収穫できる。そういうのを数年つづけてから、そこをひきはらった。

生ごみを畑にかえしていると、いろんなものが芽をだす。馬鈴薯のように栄養生殖で芽をだすものもあれば、南瓜のようにたねから芽をだすものもある。そういうものをだいじにそだてて収穫までもっていくこともある。けれど、山芋はやっかいだ。つるがどこまでものびていき、繁殖力が旺盛だ。そのわりに、芋は案外とふとらない。じわじわとしかおおきくならない。そして、きちんと管理をしないから、ひどくでこぼこになる。うっている長芋のようにきれいな円筒形にはそだたない。

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それでも昨日、庭の畑をほりかえして、山芋を収穫した。本来なら秋から冬にかけてが収穫時期だろう。それをいまごろに収穫したのは、単純に、春になってあちこちから山芋の芽がのびてきたからだ。ほうっておけばあちこちにつるがからまって、じゃまになる。いちいちぬいていたらめんどうだ。根っこがのこっていればいくらぬいてもでてくることになる。だったらと、スコップをもちだして、ほりあげた。数センチ程度のちいさなかたまりばかりだけれど、一人前のおかずにはじゅうぶんなぐらい、ほりだされた。
皮をむくのはめんどうだったけれど、どうにかこうにかむきおえた。和風のだしでうすく味をつけ、にものにしたら、それなりにうまかった。年に1、2回、こういうことがある。

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